竹生島には長浜と今津と彦根から観光船がでている。
便数が多い長浜からわたることにした(往復3200円)。
9時半の船にのり、えり(小型定置網)とよばれる小型定置網の網をながめながら30分ほどで、こんもりした緑の島に近づいた。周囲は急斜面で浜はない。寺のあるところだけ船着き場ができている。
上陸して、すぐに拝観料600円を徴収される。
ちょっとのぼった右側に国宝の「唐門」がある。漆塗りの上に飾金具が散りばめられ、鳳凰や松、牡丹の彫刻がほどこされている。
2006年、オーストリアのエッゲンベルグ城で発見された「大坂城図屏風」に、大坂城の本丸の北の「極楽橋」がえがかれており、それが「唐門」であることがわかった。秀吉がたてた大坂城の唯一の遺構だという。
観音堂にまつられた本尊は千手千眼観音。千手観音というのは水とかかわりが深いのだ。
その奥には重要文化財の「舟廊下」がある。秀吉が朝鮮出兵の際にのった御座船「日本丸」の骨組みを利用したとされている。
廊下をくぐると国宝の竹生島神社にでる。豊臣秀頼の時代、もとの本殿の外回りに京都から移築した建物をいれこんだという。
庭をはさんだ湖側に「竜神拝所」がある。湖の際に鳥居がたっていて、かわらけをなげて鳥居のなかをとおったら願いごとがかなうんだそうだ。
石段を上までのぼると、本堂にあたる弁財天堂(昭和17年)や三重塔(2000年築)、宝物殿がある。
でもなぜこんな小さな島が信仰の拠点になったのだろう。
五来重によると、明治までは死者を他の地へ運んで葬る習慣があった。滋賀県高島町の阿弥陀山には湖東の人々が葬られた。さらにその以前の水葬のなごりが竹生島の信仰だと五来はは推測する。
和歌山県の熊野に古墳がないのは、死体を海にながしたりしずめたり、海岸で風葬にするという習慣があったからだが、竹生島もそうだった。漁網にかからないように、島周辺のいちばん深いところに遺体を沈めたと考えられるという。