陰陽師たちの日本史<斎藤英喜>

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■角川新書260312
 アニメや漫画の陰陽師・安倍晴明(921〜1005)は、鬼と対決し、式神を操り、怨霊を調伏する魔術師だ。実際の陰陽師とはどんな存在なのかを古代から明治にいたるまで丹念にたどる。

 陰陽師は、星の動きが国家や天皇の運命にあたえる影響を見きわめ、吉凶を占う。その背景には、中国の陰陽五行の思想があった。7世紀初頭、天武天皇が、天文・暦・ト占などの知識を国家体制のなかに組みこみ「陰陽寮」という役所を設けた。
 「陰陽道」の用語は古代中国にはなく、日本の10世紀以降の文献にでてくる。古代中国の陰陽説・五行説・天文説などをベースにして、密教や道教、神祇信仰との交渉のなかで編み出された体系であり、そのキーパーソンが、藤原道長や清少納言、紫式部と同時代の安倍晴明だった。
 太陰太陽暦は、暦の作成は複雑な計算と暦法理論が必要で、おなじ暦を二度とつかうことはできない。毎年の暦をつくることは、支配領域が同じ時間を共有することを意味し、皇帝(天皇)が天の委託のもとに時間と空間を支配することの象徴だった。
 天体現象の異変は、天の支配者(天帝)が地上の支配者(天子)にしらせる予兆であり、地上の支配者はつねに天体の運行をチェックしなければならない。チェック機関が「陰陽寮」だった。
 陰陽寮は国家全体の問題を占うから極度な「清浄さ」を要求される。だから、貴族たちの私的な穢れを祓うことはない。そこで、個人を対象に祭祀をする「陰陽道」という呪術的な宗教が形成される。
 安倍晴明は当初は陰陽寮の「役人」だったが、陰陽寮をやめたあとはフリーの祈祷師・占術師として、貴族たちの救済をになった。「国家占星術」から「個人占星術」への変貌にたずさわったのが「陰陽師・安倍晴明」だった。晴明は85歳まで生きた。当時としては驚異的な長命だった。
 清明のような上級陰陽師を雇えない中下級の貴族は、「法師陰陽師」をやとった。彼らは裏では「呪詛」を請け負うことがあり、清少納言ら貴族女性たちにとっては軽蔑の対象だった。
 清明は、密教の焔魔天供、陰陽道の代厄御祭にかえて、「泰山府君祭」を考案した。そのルーツは中国の民間信仰にある。泰山は山岳信仰の聖地であり、山上には、人間の寿命をを記した帳簿があると信じられた。冥府の王である泰山府君に、死者としての戸籍を抹消し生者の戸籍に再登録してほしいと願うのが泰山府君祭だった。
 インドの仏教が中国に伝わることで、仏教の地獄や閻魔王などが混ざり、泰山府君には、生前のおこないにたいする審判や刑罰の執行者のイメージが付与されていく。そうした信仰が、「泰山府君」を中心におく陰陽道祭祀になっていった。平安時代後期から院政期にかけて、泰山府君祭は貴族社会に定着した。 
 平安前期までの陰陽寮の「天文」は中国由来の国家占星術だったが、個人の運命をつかさどる「星」を見る「個人占星術」は、唐の時代に中国に伝わった「インド占星術」がもとだった。そのルーツはギリシャにあり、さらにさかのぼると紀元前3000年に栄えた「メソポタミア文明」に行き着く。
 インド系・ギリシャ系の占星術は、個人の運命を占える。中国では根づかなかったが、日本では僧侶のグループがになう「宿曜(すくよう)道」に発展した。
 平安時代中期に確立した「陰陽道」では、暦部門は賀茂氏、天文部門は安倍氏が独占したとされている。賀茂保憲が息子の光栄に「暦道」を、弟子の安倍晴明に「天文道」をさずけた伝承がもとになっている。
 しかし実際は、平安後期には、安倍氏、賀茂氏以外の氏族出身の陰陽師も多かった。
 平安時代末期には安倍氏、賀茂氏に優秀な人物がおらず、陰陽道は衰退していた。「金神(こんじん)の忌み」などをめぐって儒学者と議論がおきた。
 「金神七殺の方」とは、金神がいる方向をおかすと、7人までも隣人を殺害するという禁忌だ。これをはやらせたのは、清原氏という儒家だった。陰陽師たちは反対したが、おさえることはできなかった。

 陰陽道は、清明から6代目にあたる安倍泰親によって再生される。当時、儒教などとの対立にくわえ、賀茂家への対抗や、安倍家内部も3つの家筋にわかれていた。1132年には、清明の旧邸宅地である「土御門の家」について、泰親と兼時(晴道)が、どちらが正統な相続者かをめぐって訴訟事件を起こしている。
 泰親は「土御門の家」を聖なる「霊所」とよび、のちに「晴明神社」となった。(「清明の邸宅跡」というのは伝承によって創作された作り話)
 鎌倉幕府も「陰陽道祭」に力を入れた。安倍有世(ありよ)は幕府に重んじられ、「土御門」という公卿としての名乗りをする。
 室町時代も、足利家にとりたてられたが、応仁・文明の乱で陰陽寮田を知行地とした若狭国名田庄に避難した。応仁の乱は、安倍氏、賀茂氏の陰陽師たちを地方に分散させるきっかけになった。
 戦国時代の1565年、賀茂家の当主在富(あきとみ)が死去し、後継ぎがないままに賀茂家が断絶した。そこで安倍有春の次男、賀茂在高(あきたか)が賀茂家に養子にはいった。実質上、天文も暦も安倍家がになうことになった。
 賀茂在富の息子在昌(あきまさ)は、キリスト教に入信した。1563年に来日したフロイスは、「日本史」のなかで「日本で最高の天文学者の一人で公家」である「アキマサ」が、キリスト教徒から日蝕月蝕や天体の運行についての知識を聞いて納得したため京都で最初に入信したと記した。彼の入信が、賀茂家断絶の一因とも考えられるという。

 戦国時代の武将につかえる軍師には「陰陽師」出身が少なくないが、豊臣秀吉は陰陽師を「国家を亡ぼすもの」として弾圧した。
 甥の秀次が、拾丸(秀頼)へ呪詛を仕掛けたという嫌疑をかけられ切腹したが、呪詛を請け負ったとされたのが土御門久脩(ひさなが)だった。このとき陰陽師131人が尾張国に強制的に移住させられた。

 「ホキ内伝」によると、祇園祭りの祭神である牛頭天王は星々の世界にむすびつき、陰陽道の世界では「天道神」とされる。「天道神の方」は、すべてが成就する最高の方位だ。凶悪な方位である「金神七殺の方」の金神とは、牛頭天王に宿を貸さなかったため殲滅された「巨旦大王」のことだ。
 民間にも広まる牛頭天王の物語によって、方位や日時の吉凶を説明するのは、「ホキ内伝」の担い手が、宮廷陰陽師ではなく、民間で活動する陰陽師である証拠という。
 そんな在野の「陰陽師」は、清明とほぼ同じ時期に登場し「陰陽法師」とよばれた。近世の「唱門師」も、占い・祈祷をして、家々に暦を配り、正月には万歳などをしたが、一般からは賎視された。
 折口信夫は、陰陽寮所属の「陰陽道の博士」に発する「宮廷の陰陽道」と、「民間の寺僧」がになう「僧侶の側の陰陽道」のふたつの流れについて、前者の官人たちは事務にたすわるだけで、「学問」としての発展性が失われたと評し、後者の「僧侶の側の陰陽道」が民間信仰とも融合して社会に広がったと評価した。
 土御門家は江戸時代にはいると、これら地方で活動する「陰陽師」系宗教者を自らの支配下におくことを画策する。「陰陽師」を名のって、占いや暦売り、祈祷、雑芸などの「商売」をいとなむ者は、土御門家から「門人」としての「許状」を発行してもらい、その対価として上納金を納めるという体制だった。1683年の霊元天皇の「諸国陰陽師之支配」の綸旨=勅許と、それを追認する将軍綱吉の朱印状などによって制度化された。
 賎視されることの多かった地方の陰陽師にとって、土御門家門人というブランドを得ることは祈祷などの「売り上げ」に直結した。土御門家にとっては、宮廷社会が衰退して経済的に逼迫するなか、地方の陰陽師たちからの上納が不可欠になっていた。

 江戸時代前期の陰陽師の競合相手は、西洋天文学をとりこんだ幕府の「天文方」だった。
 861年からつかわれていた「宣明暦」では、日蝕や月蝕の予報が実際と約2日ずれるようになっていた。そこで1684年(貞享元年)、823年ぶりに「改暦」されることになった。
 リードした渋川春海(1639〜1715)は、西洋天文学を伝える「天経惑問」に学びつつ、イスラム暦の影響をうけた元の「授時暦」を京都の経度・緯度に合わせて再編して改暦に成功した。
 陰陽道再興で活躍した土御門泰福は、吉田神道が中世的な神仏習合色を残し、近世社会では時代遅れであることを見ぬき、当時台頭してきた山崎闇齋(1618〜82)創始の「垂加神道」に接近した。垂加神道は、天文学と共振するものをもっていた。
 17世紀半ばに明が滅び、「中華」「華夷」思想の基盤がくずれ、儒学者が信奉する儒学=文明の教えの現実的根拠が失われた。「中華思想」が相対化され、日本こそが真の「中華」であるという日本中華思想、日本型華夷思想が生まれた。山崎は朱子学者だが、儒学を超えるものとして「神道」を位置づけた。
 山崎は、天地・万物をつくりだしたのは陰陽・五行の気の働きとみる。そして陰陽・五行のエネルギーこそが、じつは日本書紀のいう「国常立」だとする。天地開闢の冒頭に顕現したクニノトコタチとは、陰陽・五行の気に与えられた名称と解釈した。中国の陰陽・五行の思想は、じつは日本の神々のことであり、陰陽・五行説もじつは「神道」のひとつだと説いた。土御門泰福は、土御門の陰陽道を「天社神道」(土御門神道)とよんだ。
 渋川春海は西洋天文学の知識によって、中国絶対主義=中華思想から逃れた。泰福も、渋川や山崎との交流を通して、中華思想とはことなる、「日本」固有の信仰「神道としての陰陽道」を創造した。西洋の新しい知識とであうことで中華思想を相対化し「日本」を発見することになった。
 国学者の本居宣長は西洋天文学の解説書「天経惑問」を読み、天文学関係の論稿で、西洋天文学の優位性を論証し、地上は空に浮かんだ球体(地球)であることを認めていた。アマテラスを太陽そのものとし、太陽の子孫である天皇が統治する「皇国」は、他の国とは比較できない優秀な国であると主張した。神がかり的な宣長の国学の前提にあるのは、太陽が地球を照らしているという西洋天文学の知識だった。さらに宣長は太陰太陽暦の限界を指摘し、太陽を中心とした「太陽暦」のほうが真の暦であると主張した。
 宣長の「没後の弟子」平田篤胤(1776〜1843)は狂信的なナショナリストと批判されてきたが、地動説を肯定していた。
 古事記の「国稚く、浮脂の如くして、九羅下(くらげ)なすただよへる」という神話は、地球が天界を旋回している意味し、日本の「古伝説」はすでに地動説を唱えていたと解釈した。篤胤は天文学に精通していたが、その結論は、西洋、中国、インドの天文学の根源は日本の神々であり、「暦」を統御する「暦神」は、牛頭天王であり、スサノヲであるとかんがえた。

 明治3年、1870年、「天社神道土御門家免許ヲ禁ス」という太政官布告(陰陽道禁止令)が発令された。「神道国教化」による神仏分離令、修験道廃止、禁厭祈祷の医療行為差止め取締りなど、「淫祠邪教」撲滅の動きの先陣をきるものだった。1872(明治5)年には太陰太陽暦が廃され、太陽暦が採用された。

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