人物叢書 和気清麻呂<平野邦雄>

  • URLをコピーしました!

■吉川弘文館260202
 単純な「忠君愛国」の人ではない、革新的土豪、都市プランナー、土木技術者、仏教の革新に資した者としての和気清麻呂の姿を膨大な文献をもとにあきらかにする。清麻呂がこんなおもしろい人だとは思わなかった。

 中世の「水鏡」などの文書では、和気清麻呂も姉の広虫も、道鏡側の人物であるか、または立場があいまいであり、危機にある宮廷をすくったのは、藤原百川ということになっている。百川は天武天皇系の称徳女帝のかわりに、天智天皇系の光仁・桓武を天皇にたてた。
 清麻呂の評価は近世にはいって一変する。なかでも水戸徳川家が編纂した「大日本史」が決定的な役割をはたした。
 清麻呂が身をすてて大義をつらぬいたことは、臣下のかがみであるという道徳史観であり、それが昭和の教科書にまでもちこまれた。
 本当の清麻呂はどんな人だったのだろう。
 和気氏は吉備の豪族だ。吉備の国ではその名のとおり吉備真備がでた吉備氏が力をもっていたが、別(わけ=和気)氏は6世紀ごろから朝廷とむすんで吉備氏を制圧する側にまわることで台頭したとみられる。
 美作・備前から播磨の西部にかけては銅鉄の産地だった。和気のもとにある部民には金属の生産にしたがう渡来人が多かったと思われる。渡来系の秦氏は、播磨西部から備前・美作にかけて分布していた。
 当時、藤原仲麻呂による新羅征伐計画があり、軍事が重視され、唐でまなんだ吉備真備が城を築き、軍船の建造を計画し、諸葛亮と孫子の兵法を教えた。仲麻呂が反乱をおこすと、真備はただちに内裏にもどされ、兵を動かして仲麻呂の退路をたち、あざやかに平定した。
 邪魔者の仲麻呂が鎮圧されると、孝謙上皇は道鏡を大臣禅師に任命し、弟の浄人をいきなり従二位・大納言にとりたてる。上皇はふたたび即位して称徳天皇となる。

 清麻呂の姉の広虫は孝謙上皇(称徳天皇)の「腹心」といわれた。広虫のひきたてによって清麻呂は登用された。
 道鏡事件では当初、清麻呂が宇佐神宮に神勅を確認におもむく際、道鏡は「つごうのよい神勅をもってくれば出世させてやる」と清麻呂に耳打ちした。清麻呂の立場は、王権に直属する土豪的官僚であり、中立的であるとみなされていたからだ。
 宇佐から清麻呂のもたらした神勅は道鏡をおこらせ、広虫と2人によるでっち上げだとされた。「いままで天皇につかえる臣下と思えばこそ、姓をたまい、取り立ててきたのに、いまや忽ちに穢き奴として、姓を奪い、「別部」と名のらせ、その名も「穢麻呂」「広虫売」と改める」というのが事件直後の宮廷の公式見解だった。清麻呂は大隅国に流され、出家して法均を名のっていた姉も還俗のうえ備後国に流された。
 女帝が死に道鏡が失脚すると、藤原氏は皇太子白壁王(光仁天皇)をたてた。清麻呂と広虫は中央にもどった。だが清麻呂は9年6カ月間にわたって従五位下のまますえおかれた。藤原氏と結んでいなかったからだ。
 清麻呂の政治活動は、781年の桓武天皇即位で復活する。和気氏は、王権に直属することによって、貴族間の政争の抑制勢力として登場する新しい土豪官僚だった。清麻呂の3人の子、広世・真綱・仲世も父の志をついだ。
 和気氏は故郷でも豊前でも秦氏とふかい関係にあった。遷都先の長岡京も次の平安京も秦氏の地盤だった。渡来系の秦氏は遷都の陰の立役者だった。
 長岡京遷都は、抜き打ちに方針をうちだし……わずか半年後には天皇・皇后・中宮が長岡京に移るという異常な突貫工事だった。当然反発がおきる。785年、責任者である種継は射殺された。事件の張本人の大伴継人・永主や佐伯高成らはみな皇太子早良(さわら)親王の官人で、すでに亡くなっていた大伴家持が計画をたて、皇太子(早良)をたてて実行したとされた。皇太子は淡路に流される途中で死んだ。
 事件のため工事は停止され、早良親王の怨霊によって皇太子(平城)が病にかかるなど、怨霊の恐怖がうずまいた。死の影をやどし、中心人物を失った長岡京は放棄されることになった。平安遷都を立案したのも清麻呂だった。

 桓武天皇の政治の特徴は「軍事と造作」、つまり蝦夷討伐と新都の造営にあった。天皇専制を可能にしたのは、藤原百川・永手・良継などが前代に世を去り、外戚に強力な藤原氏が存在しなかったためと考えられる。
 蝦夷討伐を支えた坂上苅田麻呂とその子の田村麻呂も渡来系の大和高市郡の倭漢氏の一族だった。
 秦氏はほかの渡来系氏族とちがって新羅系で、殖産的氏族として、鴨川や桂川にわたる氾濫平野の開拓で富をきずいた。長岡・平安両京は、秦氏の財力をかりて営まれた。桓武の側近グループのほとんどは渡来系だった。
 和気清麻呂は788年、河内・摂津の境に川を掘り、堤をきずき、河内川をみちびいて西の海に通ずれば、肥沃な土地をうるおすことができると考え、23万人を動員して事業を遂行した.この工事は8世紀の土木事業としては最大のものだった。
 
 清麻呂とその息子は仏教の改革者でもあった。
 清麻呂が道鏡事件で宇佐にいたったとき、八幡神が「皇位と国家を安んずるため、仏力のたすけをかりたいので、一伽藍をたてるように」ともとめた。この神願をはたすため780年に光仁天皇に寺の建設を願い、その後、神願寺をたて、官寺に準ずる「定額寺」とみとめられた。ところが土地が低く、砂や泥がはいるので、清麻呂の死後の824年、子の真綱と仲世が上奏して高雄寺を定額寺とし「神護国祚真言寺」(神護寺)と名づけた。
 おそらく799年に清麻呂が死んだとき、高雄山を墓所とし、そこを寺としたのではないか、と筆者は想像する。
 最澄と空海は和気氏の庇護のもと高雄山に拠点をおいた。
 はじめ最澄をひきたて、桓武に推薦したのは清麻呂であり、広世のはからいで遣唐使に参加した。帰国後、高雄山寺を拠点とし、叡山に大乗戒壇をたてたのも広世の斡旋によるものだった。
 桓武と広世が死ぬと最澄は高雄山をはなれる。かわりに807年に帰朝した空海が真綱に支援されて高雄にはいる。
 空海は、嵯峨天皇に接近し、816年に高野山をひらく。823年には、桓武がたてた教王護国寺を東寺としてゆずられた。
 高雄山寺が定額寺とされると、空海はあらたに灌頂堂・護摩堂をたてて「神護国祚寺」、つまり神護寺と名づけた。831年、南山(高野山)にはいるまでそこに住んでいた。
 このように、和気氏は2代にわたって最澄・空海をバックアップし、革新的な平安仏教の創立につくした。和気氏は歴史の推進者だった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次