藤原京は飛鳥と平城京にくらべて存在感がうすいが、中国の都城を模範とした日本初の「都市」だった。「死」の観念が革命的に転換した場でもあったという。今夏には飛鳥とともに世界遺産になる見こみであり、その前に藤原京の歴史や意味をたどっておくことにした。
古墳時代終焉のシンボル

近鉄・畝傍御陵前駅におりると正面に端正な神奈備型の畝傍山(199.2㍍)がそびえる。大和三山でもっとも標高が高い死火山だ。

樫原神宮の一角から登山道がある。ちなみに樫原神宮は、どこにもまつられていなかった神武天皇のために1890(明治23)年につくられた新しい施設だからありがたみはない。登山道を40分ほどのぼると頂上にたどりつく。木々の間から西の金剛と葛城の山々、二上山の双耳峰をのぞめる。藤原宮跡は東2.5キロにある。



藤原京は、西の畝傍山、東の香具山、北の耳成山という大和三山にかこまれた場所に位置している。3つの山を宮殿をまもる神とする「三山鎮護思想」からこの位置がえらばれた。約5キロ四方で2〜3万人がすんでいた。中心に南北の朱雀大路がとおり、北端に1キロ四方の宮殿「藤原宮」があった。北から順番に天皇のすむ内裏、儀式をおこなう大極殿、政治の場である朝堂があり、まわりに官庁が配されていた。

広大な田んぼのなかに、朱雀大路跡や大極殿や朝堂院の柱が復元されている。

近辺の歴史をたどるには、奈良県立樫原考古学研究所附属博物館がよい。二上山のサヌカイトをナイフとしてつかった旧石器時代から中世にいたる歴史を展示している。
前方後円墳は6世紀末に終わって大型の円墳や方墳が出現し、7世紀後半には大規模古墳はつくられなくなる。5世紀から出現した群集墳も7世紀中頃には消滅する。こうした現象は律令体制を模索するヤマト政権の意図を反映しているという。
蘇我氏打倒のクーデター・乙巳の変(645年)から中央集権国家づくりがはじまり、701年の「大宝律令」で律令体制が確立する。それとともに古墳の時代が終わるのだ。694年に誕生し、大宝律令がつくられた藤原京はそのシンボルだった。
殯から浄めへ
古墳時代の終焉とともに葬送儀礼は大きく変化する。いや、葬送儀礼の変化が古墳時代を終わらせたといったほうがよいかもしれない。
持統天皇の夫の天武天皇までは、天皇の代がわりごとに宮が移動した。
天武の遺体は2年2カ月間、宮殿に安置された(殯=もがり)。
屍体が骨にならなければ、死者の「霊」が他界におもむくことができないと考えられ、新しい君主が誕生するには、殯の儀礼をへて新しい時間が回復される必要があった。「都」と「王権」の運命が表裏一体とされ、天皇一代ごとに宮をかえるならわしだった。
そのならわしは、藤原宮への遷都で幕をとじた。
藤原京をつくった持統天皇は自身の葬儀について「簡素に、倹約に」と遺言した。実際は、1年間の殯儀礼がおこなわれが、天皇の葬礼ではじめて火葬された。
次の文武の殯は5カ月、元明は1週間で、いずれも火葬だった。殯の短縮も火葬も、死の穢れを早期に終結させるためだった。その背景には、穢れを浄める仏教のイデオロギーがあった。
710年に平城京に遷都すると、譲位による王位継承が恒常化する。死を媒介とする王位継承を回避するためだった。
山折哲雄によると、遺体の腐敗を媒介とした死と再生という観念は、ダイナミックで循環する時間意識を培養していた。それが「直線的時間」へ変化し、穢れとの共生から穢れからの分離の段階へうつった。仏教で大事なのは遺体の穢れから解放された「霊」の存在だった。(「死の民俗学 日本人の死生観と葬送儀礼」)

アマテラスは持統
持統天皇は、巨大な権力をもった冷徹な女帝だったらしい。
天武天皇には、鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ=持統)の子の草壁皇子と、天智天皇の娘・大田皇女(おおたのひめみこ)の子の大津皇子がいた。大津皇子は文武にすぐれていたが、686年に天武が死ぬと、草壁皇子にたいして謀反をくわだてた嫌疑で、天武の死後1カ月もたたずに処刑された。ともに逮捕された人びとはみなゆるされていることから、鸕野讚良皇女の陰謀ではないかとと考えられている。
ところが草壁皇子は天皇になる前に夭折してしまう。そこでまだ幼い草壁皇子の息子(文武)を天皇にするため、みずからがピンチヒッターとして持統天皇となった。

文武が天皇になり、藤原不比等の娘の宮子が皇后になるが、文武もまた夭折する。まだ幼い息子(聖武)を天皇にするため、草壁の妻であった元明がピンチヒッターの女帝となる。皇后の経験のない女性が女帝になるのは前例がなく、子から母への皇位継承も異例中の異例だった。
はじめは持統が息子を帝位につけるためであり、次は持統と不比等の意思だった。
その際、「皇位継承における直系相承(父子相承)の原則」をかかげた。応神天皇以降は、父子ではなく兄弟で天皇をつぐことが多かった。たとえば、天智天皇の次は、天智の息子に壬申の乱で勝利した天智の弟の大海人皇子が天武天皇になった。
ところが記紀では、実在がうたがわしい仲哀天皇以前は父子相承が連綿とつづいている。
記紀は藤原不比等の時代に完成した。その記述は、父子相承の確立をはかったのではないか、という。それによって天皇の祖父としての藤原の権力が絶対的なものになった。8世紀前後の律令国家の成立は、政治的実権の藤原家への移行をもたらした。(上山春平「神々の体系」)
一方、梅原猛は「水底の歌 柿本人麿論」で次にように論じている。
記紀では当初、八百万の神の合議によって「皇子」が降臨していたが、「皇孫」が降臨するようになり、次に、天照大神と高木神(タカミムスビノミコト)の命令で皇孫が降臨することになる。最後の日本書紀では、高木神の命令で皇孫が降臨する。
神の衆議は、天武死後の不安な政治情勢をしめし、天照大神とは持統であり、その後、外祖父である高木神=不比等=が権力をにぎる……という経緯が神話のなかに表現されている−−。
梅原らしい推論だ。
古代史はつくづくおもしろい。
