平安時代の弘仁年間(810~824)、大阪府交野市の山中で弘法大師が秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が、現在の星田妙見宮など3カ所に落ちたとつたえられている。実際、弘仁7(816)年には隕石が落下した記録があり、日本の隕石落下の記録で2番目に古い。北斗七星と同じ方向のペルセウス座流星群によるものと考えられている。隕石跡とされる星田妙見宮は2023年秋に訪ねた。https://note.com/fujiiman/n/n13f124987d62
弘法大師が秘法をとなえたのは、妙見宮の北東1.8キロにある現在の獅子窟寺のある場所だ。2026年1月にたずねることにした。

肥沃な「甘田」

JR学研都市線の河内磐船駅(交野市)におり、小さくもりあがった東側の山にむかう。古い農家と新しい住宅がまざりあう集落に天田神社があり、本殿には、立派な絵が奉納されている。
由緒によると、古代からこの地は土地が肥えてみのり豊かだったため「甘野」といわれ、川は甘野川、田は甘田だった。この甘田に田の神をまつったのが天田神社のはじまりという。
3キロ南にある磐船神社の巨岩は、物部氏の先祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天からくだる際に乗ってきた「磐船」とされる。肩野物部氏は577年、敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)(推古天皇)にこの地を献じて、ここが私部(きさいべ)、私市部(きさいちべ)となった。「きさい」は皇后をしめす。
平安時代になると遊猟にきた貴族が和歌を詠み、七夕伝説にちなんで甘野川は天の川、甘田は天田としるされるようになった。
「磐船」は海に関係があると解釈され、物部氏の衰退もあって、祭神は、海神であり和歌の神である住吉神にかわった。
役小角、行基、空海……

天田神社から山腹の団地をのぼりつめ、急坂をさらにのぼった尾根に石組みの立派な土台がある。獅子窟寺の仁王門跡だ。
さらにのぼると寺の本堂だ。本尊の薬師如来(国宝)は弘仁期の一木造り。予約すれば拝観できるらしい。

おむすび型の「なで石」や、愛らしい地蔵がならび。「災い転じて福となす」「天福岩」は、両手で抱いて自分の願いをひとつだけ3回となえるとかなうらしい。寺務所の隣からは大阪の街や六甲山が一望できる。


寺は、役小角がひらき、聖武天皇の勅願をうけた行基が堂宇をたてた。空海も修行の場とした。四国遍路の山寺の雰囲気に似ている。
森のなかに「王の墓」
獅子窟寺は鎌倉時代に荒廃したが、亀山上皇(1249〜1305)が薬師仏に病気平癒を祈って全快したため再建した。


本堂の手前から谷にむかってくだると、「お大師様の水」と自然石を頭にした弘法大師像、それから歴代住職の墓など40以上の石塔や五輪塔があり、さらに100メートルほど先に四角形のがっしりした石塔が2つならんでいる。これが、亀山上皇とその妻佶子(きつし)皇后の「王の墓」という。ただ「王の墓」と名づけられたのは明治以降らしい。

亀山上皇は後嵯峨天皇の子で、兄の後深草天皇より先に天皇に即位し、亀山系の南朝(大覚寺統)と後深草系の北朝(持明院統)の対立のもとになった。元寇の際、「我が身を以て国難に代わらん」と、異国降伏祈願を全国の神社・仏閣に命じた。
1615(元和元)年の大坂夏の陣で、豊臣方の大野治長からの協力要請を寺が拒否したため、全山焼き討ちされた。その後再建されたが、12院あった往時とくらべると10分の1以下の規模になってしまった。
磐座群は古代信仰の拠点



本堂にむかって左手の石段をのぼると、山肌から巨大な岩がニョキニョキとそびえている。この岩の下で空海は修行をしたのだ。

さらに尾根をのぼる。標高250メートルの尾根にまんまるとした「みろく岩」があり、その先の見あげるばかりの巨岩は足場が切られていてのぼることができる。これが「八丈岩」。



谷にむかってちょっとくだった巨岩は「鏡岩」だろうか。
2つにわかれた道の左をえらび、ずるずるすべりながら谷にくだっていくと、巨岩がいくつも折り重なり、深い穴があちこちにあいている。

ひとつの穴の奥に不動明王が祀られていた。これが「龍岩窟」のようだ。

日本最古の神社と自称する三輪山よりも大規模な磐座群だ。これらは寺の「奥の院」と位置づけられている。平安時代には葛城修験の山岳霊場となっていた。「奥の院」とは仏教以前の信仰の拠点であることが多い。古代の磐座信仰の場に寺がひらかれたことがよくわかる。

谷沿いを20分ほどくだると、住宅地におりたった。
