教科書に登場する和気清麻呂は、忠誠心だけのおもしろみのない人物だった。
平城京で女帝・称徳天皇の寵愛をうけた僧の道鏡が、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮で「道鏡を天皇にせよ」という神のお告げがあったと言って皇位につこうとした。それを確認するため清麻呂の姉の広虫が宇佐八幡宮につかわされることになったが、病弱だから、弟の清麻呂が代行する。
「天皇の子孫しか皇位につけない」という神託を清麻呂はもちかえったため、道鏡は激怒した。清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられて大隅国へ、広虫も「狭虫」(日本後紀などでは広虫売=ヒロムシメ)と改名させられて備後国へながされた。
清麻呂のもちかえった神託によって、道鏡への反発が強まり、770年に称徳天皇が没すると道鏡は下野国に追放され、2年後に死んだ。
このストーリーでは、「極悪人」道鏡には興味をおぼえるが、かたぶつの清麻呂には人間的なおもしろみはかんじられない。何年か前に神護寺を参拝したが、清麻呂の墓は1枚しか撮影しなかった。
狛猪のいる神社

ところがひょんなところから清麻呂の足跡をたどることになった。
神社をまもる動物といえば狛犬(こまいぬ)だが、京都御所の西、烏丸通りに面した護王神社では、鳥居前に狛猪(こまいのしし)が鎮座しているという。

興味をもってたずねると、手水舎も猪で、水をうける手水鉢にもミニチュア猪が列を整列している。猪のチェーンソーアートがあり、陳列棚には全国から寄進された猪グッズがずらりとならぶ。いったいなぜ猪なのか?

護王神社の祭神は和気清麻呂と姉の広虫だ。
清麻呂は道鏡の怒りを買って足の腱の切られ、輿(こし)にのって配流先の大隅国にむかったが、宇佐八幡宮の手前で道鏡の刺客にねらわれる。そこに、300頭の猪があらわれ、清麻呂一行を八幡宮へおくりとどけた。八幡宮に参拝すると清麻呂の脚は回復した。
護王神社が猪をあがめ、「足腰の守り神」とされるのはこのためだった。
明治天皇の命令で神護寺から独立
宇佐八幡の神が清麻呂に「国家を安んずるため仏の力をかりたいので、寺をたててくれ」とたのんだ。道鏡失脚後に都にもどった清麻呂は八幡神との約束をまもるため河内に「神願寺」をたてた。その場所は特定できていない。
ところが土地が低く、砂や泥がはいる場所だった。794年に平安京に遷都され、5年後に清麻呂が亡くなったあと、824年に清麻呂の子の真綱と仲世が高雄山寺にうつした。その後、寺をあずかっていた空海が神護国祚真言寺(神護寺)と名をあらためた。


平安末期に荒廃した神護寺を鎌倉時代に文覚上人が復興した際、鎮守社として清麻呂を「護法善神」としてまつる祠をたてた。「護法善神」は江戸末期の尊王思想の高まりで注目され、1874(明治7)年には「護王神社」と改称して別格官幣社に。さらに1886(明治19)年には明治天皇の勅命によって現在地にうつされ、神護寺から独立した。拝殿前の狛猪「霊猪像(れいちょぞう)」は1890(明治23)年にたてられた。
護王神社の外壁には明治時代の10円札の写真がある。金兌換制度に移行したあとに発行された1899年の甲10円券には、和気清麻呂や神社の拝殿がえがかれ、裏面には疾走する猪があしらわれている。
当時の10円は現在の数十万円に相当する。だれもが「いのしし」にあこがれた。ちなみに戦前の紙幣に登場したのは、神功皇后、菅原道真、武内宿禰、和気清麿呂、藤原鎌足、聖徳太子の6人だ。今ではほぼわすれられている清麻呂だが、戦前は「忠君愛国」の鑑としてあがめられていたのだ。

猪は渡来人の祭り?
ではなぜ猪が清麻呂をたすけたのだろう。和気氏と猪はどんな関係があるのだろう。
古代史家の平野邦雄の「和気清麻呂」によると、和気氏は備前(岡山)の土豪だった。美作・備前から播磨西部は銅や鉄の産地で、和気氏にしたがう部民には金属を生産する渡来人が多かった。とりわけ秦氏と強いつながりをもっていた。
豊前の宇佐八幡は、伏見稲荷とともに秦氏の創建とつたえられている。秦氏ゆかりの氏族には、猪の頭をかぶる祭りがうけつがれていた。「野猪にまもられた」という伝説は秦氏が清麻呂をたすけたことを意味する、と平野は推測する。
清麻呂は道鏡の仲間?
平野によると、中世までの「水鏡」「愚管抄」などの文書では、和気清麻呂も姉の広虫も、道鏡側の人物、あるいは、あいまいな立場をとった人物としてえがかれている。危機にある宮廷をすくったのは、藤原百川ということになっている。百川らは天武天皇系の称徳女帝のかわりに、天智天皇系の光仁・桓武を天皇にたてた。
清麻呂の評価は近世にはいって一変した。なかでも水戸徳川家が編纂した「大日本史」が決定的な役割をはたした。清麻呂が身をすてて大義をつらぬいたことは、臣下の鑑であるという道徳史観であり、それが昭和の教科書にまでもちこまれた。
では、本当の清麻呂はどんな人だったのだろう。以下、平野えがく清麻呂像を中心に紹介する。
渡来人とつながるテクノクラート
清麻呂は最初から反道鏡陣営だったわけではない。だから、清麻呂が宇佐神宮に神勅を確認におもむく際、「つごうのよい神勅をもってくれば出世させてやる」と道鏡は清麻呂に耳打ちした。道鏡失脚後も従五位という身分のまま9年半すえおかれたのも「反道鏡」で活躍したわけではないことをしめしている。
清麻呂の活躍がはじまるのは781年の桓武天皇即位後だ。
すでに藤原百川・永手・良継が世を去り、外戚に強力な藤原氏が存在しなかった。桓武天皇による中央集権体制ができあがり、土豪官僚・テクノクラートとして清麻呂は登用された。
桓武天皇の政治の特徴は「軍事と造作」、つまり蝦夷討伐と新都の造営にあった。桓武の側近グループのほとんどは渡来系だった。蝦夷討伐をになった坂上苅田麻呂と田村麻呂の親子は大和高市郡の倭漢氏の一族だった。
長岡京(784〜794)と平安京の造営では、この地に根をはっていた渡来系の秦氏が活躍した。秦氏は鴨川・桂川流域の開拓で富をきずいていた。平安京造営の責任者だった和気清麻呂は渡来系の人々と桓武政権をつなぐかなめのような存在だった。
河川の流路変更工事も
清麻呂は河川改修にも力をいれた。
当時の淀川は河口近くで大和川と合流しており、水害が多かった。土砂の堆積が淀川の水運をはばんでいた。清麻呂は785年、淀川と神崎川をむすぶ水路をきりひらいた。これによって京都盆地から大阪湾への水運が実現した。
また大和川はしばしば氾濫し、現在の大坂城近くにあった港「難波津」は、大和川からの土砂が堆積していた。清麻呂は788年から、上町台地に東西の運河を掘って大和川を直接大阪湾にながす工事を開始した。延べ23万人を動員したが、上町台地の地盤がかたくて当時の技術では歯がたたず、失敗した。

そのときの工事の跡が天王寺公園にある「河底池」だという。そこにかかる赤橋は「和気橋」と名づけられている。

池の北側にそびえる標高26メートルの茶臼山は、大坂冬の陣で徳川家康が、夏の陣で真田信繁(幸村)が陣どったことで知られている。巨大な前方港円墳だと思われてきたが、1986年に発掘すると、家康の本陣跡の建物や堀割は確認されたが、古墳の遺物がほとんど見つからなかった。清麻呂が運河を掘るときにでた土を盛った跡ではないかともいわれている。

仏教の革新
和気清麻呂と3人の息子、広世・真綱・仲世は、最澄と空海の仏教改革もささえた。
はじめ最澄を桓武天皇に推薦したのは清麻呂であり、広世のはからいで唐にわたった。帰国後、高雄山寺を拠点とし、叡山に大乗戒壇院をたてたのも広世の斡旋によるものだった。桓武天皇と広世が死ぬと最澄は高雄山をはなれる。かわりに807年に帰朝した空海が真綱の力で高雄山にはいる。
空海は嵯峨天皇に接近し、816年に高野山をひらき、823年には、桓武天皇がたてた教王護国寺を東寺としてゆずられた。高雄山寺にあらたに灌頂堂・護摩堂をたて、「神護国祚真言寺」(神護寺)と名づけた。831年、南山(高野山)にはいるまで神護寺にすんでいた。