アワがゆとイノシシスープ

「旅する料理人」の三上奈緒さんはまず「縄文おやつ」を参加者にまわした。シイの実とハゼとヤマブドウ。
夕食は縄文土器でアワ粥とイノシシのスープをつくった。
縄文土器は、焚き火で熱せられたところに雨が降ると割れてしまう。だから。戸外では雨の日はつかえない。

縄文時代は当然コメはないからおかゆはアワと、小豆の野生種であるヤブツルアズキを材料とする。そこにオニグルミをトッピング。堅い殻は、縄文時代と同様、岩でたたいて割った。

ヤブツルアズキは煮こんでもかたい。カリッとした歯ざわりで、それはそれで悪くない。前もって大きな葉などにはさんで、上から岩でたたいて傷つけておくと、ふつうのアズキのように大きくふくらんだ。
もう ひとつの土器には、イノシシの肉とシイタケのスープ。
おかゆもスープも味つけは塩だけ。鶏ガラスープのようなうまみはないが、そのぶん。肉の微妙な味がかんじられる。化学調味料は自然な味をおおいかくし、味覚を退化させるのではないだろうか。

シイの実と栗

秋は収穫の季節である。真脇遺跡でも、栗やシイの実があちこちに落ちている。
落葉樹のドングリ(クヌギやトチなど)は入念にあく抜きをしなければならないが、シイはナマでもアクはない。実が小さくて殻をわるのがめんどうだった記憶があるが、なぜか真脇のシイの実は大きくて食べやすい。
「気候によってちがうんですかねぇ」とたずねると、
「種類もちがうよ」と高田館長。

公園内に植えられているシイの実をひろうと、長細いもの、まん丸のもの、小型の実の3種類がある。大きくて長細いのはスタジイ、まん丸のはツブラジイ、小さいのはハイブリッドだろうか。
シイは黒くつやつやしているのが新しい。古くなると色が薄くなる。

フライパンで煎ると、パチンと殻がわれる。黒光りしていた殻の色が薄茶色になったらできあがり。ナマでもおいしいけど、煎るとさらに甘みでる。

ちなみに渋ぬきが必要なドングリは、川の水にさらしてかわかし、またさらす……ことでアクをぬく。
シバグリの虫はたんぱく源

真脇遺跡は、縄文人も食べていた野生種のシバグリ(山栗)が豊富だ。
栗の実ははじけないように穴をあけてから煎ったり焼いたりする。

煎るだけでもおいしいけど、地元ではひと晩塩水につけて1日かわかしてから煎って、糸をとおして保管している。ほのかな塩味がついて甘みが増す。縄文人はたぶん海水につけたのだろう。
高田館長はここ数年、クリの観察をつづけている。栗の虫は、コロコロしたクリシゲゾウムシと細長いクリミガの2種類ある。
栗を毎年ひろっていると虫の数は減る。1セット50個ずつ2週間おきに採集すると、公園内の栗で虫がでるのは1セットあたり2、3個だが、雑木林では10個前後から虫がでる。飛騨では1個あたり6~10匹も虫がでてくることもある。
真脇の縄文人はクリをひろいつづけることで、食料事情を改善していた。さらにこの虫をたべてみると、ナマではおいしくないが、煎ったらかすかに栗の香りがして美味だという。「縄文人は実だけでなく虫も食べて、むだがなかったはず」と高田さんは断言する。

秋に大量にとれる栗は、縄文人も長期保存の工夫をしたはずだ。
どんな手段をもちいたのだろうか。
①そのままおいておく ②縄文小屋につるしていぶす ③煎る ④ゆでておいておく、という方法を高田館長は実験している。今のところ「煎る」が有力だという。
縄文人からまなぶ
イベントにつどった人たちもひとくせある人ばかりだった。
キャンプを主催した地元の30代の男性は、金沢で消防士をしていたが、東日本大震災被災地で活動するなかで「能登で同様の地震がおきたら大変なことになる」と危機感をいだいて帰郷した。2年後に能途半島地震がおきた。
現在の仕事は「特殊伐採」。建物や電線が近くにあって伐採がむずかしい木にのぼって上から切っていくという高度な技術だ。消防士の仕事でおぼえたロープワークが役だっている。危険な作業だが、地震や豪雨もあって引く手あまたという。
女性ファッション誌を編集していた女性は、退職して白神山地をおとずれて「縄文スイッチ」がはいった。「私たちの先輩である縄文人がなぜ異世界の人のように思えるのか。身体感覚をふくめてプリミティブな感覚をもっているからでは」
木工職人の女性は「木や紙、布といった自然素材から生活用具をつくりたい」と言い、「木器でお酒をつくれますか?」という質問に「木器からは導管から水がもれるから、その部分だけ漆をぬればよいと思います」
中能登町の男性は、日本ミツバチをそだてている。ミツバチは巣の位置をピンポイントでGPSのように記憶しているから、巣をうごかしてはいけない。セイタカアワダチソウ(ブタクサ)の黄色い花が近くにあると蜜の味が悪くなるからすべてかりとる。蜜をとったあとは、巣を煮つめて蜜蝋をとり、新しい巣箱の内側に塗る。「ミツバチは中古の家が好き」なんだそうだ。

縄文人が養蜂をしていたかどうかはわからないけど、はるか昔からうけついできた生業の技術を、現代人はうしなってしまった。
地震でびくともしなかった縄文小屋は、うしなわれた生業の技術のシンボルといえるだろう。
地震で再評価?
2005年の合併以前にあった能都町は「海とテニスと縄文の里」をかかげていたが、新しい能登町になって、「縄文」は希薄になった。私が朝日新聞輪島支局に赴任した2011年ごろは真脇遺跡以外で「縄文」がかたられることはなかった。
だが、2024年の能登半島地震後、「わしら縄文百姓みたいもんやさけー、地震ぐらいは平気や」という声をあちこちできいた。地震による大地の裂け目から「縄文」が噴きだしてきたように思えた。