海中を舞う「日本一」優美なキリコ

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 珠洲市宝立町の見附島はその形状から「軍艦島」とよばれる。その北にある海岸では8月はじめ「七夕キリコ」がもよおされる。この地区の七夕は盆の準備をはじめる日で、祖先の霊をむかえる行事とされている。提灯やぼんぼりでかざられた高さ約14メートル前後の巨大キリコ6本をそれぞれ約70人がかついで海にはいり、花火がいろどる夜の海をゆらゆらと乱舞する。能登半島のキリコ祭りでもひときわ華やかで優美な祭りである。(2014年取材)

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観光ブームで新たなキリコ誕生

 見附島周辺はもとは半農半漁の漁村で、昔は塩田、その後イワシ漁などでにぎわったが、1965(昭和40)年ごろ、観光ブームがおとずれる。
 橋元信勝さん(1955年生まれ)の家は旅館をいとなんでいた。5月の連休や夏休みは、「廊下でもいいから寝かせてくれんか」とたのまれ、橋元さんの四畳半の勉強部屋にも客を泊めた。「リンカーンコンチネンタル」という巨大な外車が旅館に横づけして、「駐車場まで案内して」と言われて助手席に乗って案内した。だが旅館につれていくと、「こんなところに泊まれん!」とでていってしまった。冷房もない粗末な旅館だったからだ。橋元さんの母は、1969年5月の大型連休のとき、過労と睡眠不足による心臓麻痺で亡くなった。
 夏は派手な花火も打ち上がった。当時の見附島商店会は100軒以上が加盟(2014年は20軒)し、パチンコ屋もそば屋も旅館もあって「銀座通り」とよばれた。

 七夕キリコはもとは「鵜飼の七夕」とよばれ、祖先の霊をむかえる「迎え盆」だった。神社は関係がなくみこしもないから「祭り」ではなかった。
 戦前は、竹の柱をはしごのように組みたてた小さな竹製キリコだった。当時の珠洲市は竹のキリコが多かった。戦後もしばらくは、妙巌寺(みょうごんじ)という浄土真宗の寺の門徒が2本のキリコをかつぐだけだった。
 そんななか、従来キリコがなかった2つの町内の若い衆が「なにかやろう! 私らもキリコをつくろう」とキリコを新調した。

軽量化でかつげるキリコに

 民宿旅館「田崎荘」をいとなむ田崎正彦さん(昭和20年生まれ)の町内は、山間の柳田村(能登町)から買った高さ13メートルの古いキリコをかついでいた。木材はアテ(ヒノキアスナロ)だから重さ2トン以上だった。重いからかつぎあげられず、鉄板をかましてひきずって巡行した。とくに海から上陸するときは重くて、ロープをかけてひっぱりあげていた。
 田崎さんが45歳だった1990年ごろ、そのキリコを600〜700万円かけて新調することにした。木材は寄付であつめた。
 カタネ棒は杉に、屋根は軽いキリをつかい、1.2トンに軽量化した。1年かけて完成したキリコを「七夕キリコ」でかつぎあげたとき、制作した大工は涙をながしてよろこんだ。
「ずっとキリコをひきずってたけど、みっともないさかい、きちっとかっこよく、きれいにかつぎたいって思ってた。それが実現できてうれしかったぁ。台車をつけてないキリコは宇出津とここと柳田ぐらい。台車つけたらキリコの意味がねぇ。ぜったいかつぐんだって、意地やね」

キリコの絵をえがく=2014年
龍の絵をあしらったキリコが完成=2014年

 紙を貼って、絵や文字をえがくのも手作業だ。パソコンに絵をとりこみ、ライトで拡大して紙の裏からうつし、なぞるように模写する。装飾もLEDをつかったり、点滅するようにしたり……と少しずつ進化している。
 ただ、高齢化がすすみ、キリコ1基あたり70人という担ぎ手をあつめるのは大変だ。近所の医院は、取引先の薬問屋の社員らに協力をもとめていたが、不幸で医院が参加できなかった年は担ぎ手がたりず、そのキリコは海にはいれなかった。最近は、金沢などの大学生の協力をあおいでいる。
 七夕キリコは開催するのに約1000万円かかるが、補助金は商工会議所からの20万円だけ。あとは市民の寄付でまかなっている。

「日本一の提灯」は消滅

2007年の大提灯=「病院広報はぁとのおと」の表紙

 珠洲市の中心でひらかれる「珠洲まつり」ではかつて高さ14メートル、直径7メートルの「日本一の提灯」がかざられていた。ただこれは、珠洲原発計画にともなう電力3社からの資金が潤沢だった1988年に祭りの目玉としてつくられたものだった。その後、何度か世代交代し、2007年に突風でつぶれたのを最後に姿を消した。
「大提灯は5年間しかもたないのに制作するのに400万円もかかった。補助金をもらって、いやいやする祭りなんてダメだ。うちらの祭りは在所の若い衆の誇り。ぜんぶ自腹でやっている。『こわれたさかい』ってよそからカネをもらうなんて考えられんよ」
 田崎さんは誇らしげにはなした。

町並みも軍艦島も崩壊

2014年の見附島
2024年2月の見附島
津波で打ち上げられた漁船=2024年2月

 2024年元日の能登半島地震で、鵜飼川の河口ちかくにあったキリコ倉庫が津波に直撃され、キリコ6基のうち5基がながされた。
 2月11日に現地をおとずれると、見附島はくずれて「軍艦」ではなくなっている。

地震40日後の宝立の町=2024年2月

 砂浜は津波で無数のごみが散乱していた。銀座通りとよばれた商店街は、大半の家屋が倒壊し、マンホールが道路から突出し、電信柱はかたむいて空間がゆがんでみえた。

2014年の宝立の町並み
2024年3月に同じ場所を撮影

 2024年の「七夕キリコ」は中止となった。
 田崎さんには2025年11月にやっと再会できた。
 2024年正月、田崎さんは帰省中の息子一家らと7人で自宅にいた。
 午後4時ごろ、震度6強の横揺れが襲うと、孫2人をこたつの下に避難させた。
 その直後、ハンマーでたたかれるようなドンドンドンという猛烈な縦揺れに3回たたきつけられた。自宅兼民宿の1階部分はぺしゃんこにつぶれた。孫2人の逃げたこたつの上に梁が落ちてきた。
 田崎さんは2階のない調理場にいたから無事だった。まず孫をこたつからひきだした。保育所につとめる娘がいた奥の部屋はつぶれたが、柱にぶらさがっていて無事だった。
 避難所に指定されていた旧宝立小学校の体育館は、天井が落ちてはいることもできない。広場で焚き火をしてひと晩をすごした。
 翌朝、小学校なら炊き出しがあるかもと期待して宝立小中学校へ。正月だから避難者は想定の倍の800人になりそうだときき、教室の机などをかたづける手伝いをした。
 炊き出しは期待できないから、金沢の妹宅にむけて昼すぎに出発した。息子が先を走る友人たちに連絡してとおれる道をさがすが、渋滞でうごかない。金沢到着は13時間後の午前1時だった。
 10日ほど滞在したあと、名古屋の娘宅で3カ月すごした。その後、金沢の知人が所有する住宅で1年すごし、2025年6月に仮設住宅が完成するともどってきた。
 民宿を再開するなら、火災保険もあるし、75%の補助がある。2500万円あれば1億円の民宿を再生できる。だが、「80にもなってなにを考えてるんや」と家族に反対された。
「独身の娘に、どでかい固定資産税をはらわせるわけにはいかんし、小さい家を建てることにしました」

民宿跡は更地になった=2025年11月

キリコ2本からの再出発

 宝立の6本のキリコのうち5本は港の倉庫に保管していた。それが津波で流された。別の場所にあった1本だけがのこった。
 金沢に避難したとき、「キリコ流されたわ」と電話があった。昔、「曽の坊の滝」という案内板が工事で流されて、新潟の寺泊(長岡市)に漂着したのを思いだした。
「新潟に流れ着いてるかわからんぞ」
 だが残念ながら見つからなかった。
 2024年の祭りはできなかったが、25年8月は、のこったキリコ1本を6つの町内の若衆が共同でかついだ。
「うれしいねぇ」「やっぱり祭りがあると元気がでるわぁ」……といった声があがる。地震でバラバラになった人々の心がやっとひとつになれた1日だった。
 1年後か2年後には新しいキリコをつくる。
「もとにもどれ、といっても、若い子いないから無理ですよ。でも、もともとキリコは2本だったんです。そこからもう一度、はじまるってことやね」
 民宿の跡地の畑で作業をしながら、田崎さんはかたった。

奥の空地に小さな家をたてるという田崎さん=2025年11月
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