重蔵神社 復興と防災といやしの拠点に

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 輪島の中心に鎮座する重蔵神社は2024年元日の能登半島地震で境内10の建物すべてが全壊した。だが地震の翌日から炊き出しをはじめ、被災者への支援物資の配布をつづける。2月3日には「豆まき」を例年どおりもよおして、地震後バラバラになっていた住民が再会する場になった。災害のなかで神社のはたした役割について、禰冝の能門亜由子さん(1976年生まれ)にきいた。

能門亜由子さんと重蔵神社
目次

がれきと火焔の地獄

 2024年元日の午後4時すぎ、初詣客が帰り、片づけをはじめていた。
 そこに震度5の地震がおきて屋外に避難したところに震度7の激震がおそった。
 ゴーゴーと地鳴りがひびき、地面がナマズかヘビのようにウネウネと波打つ。砂ぼこりが舞いあがって、3メートル先が見えなくなった。拝殿がつぶれ、境内にたつ小さな社は「ドリフのセットのように」バタバタと一気にたおれた。「会館」は、広間があって壁や柱が少ない2階がつぶれた。かろうじてたおれなかった本殿も「全壊」だった。
 自宅にとじこめられた母を玄関をこわして救出した。近所では3人が生き埋めになった。男の人が2人をたすけたが、津波警報がでたため1人は救出できなかった。着の身着のままでスマホももたずにの一本松公園に駆けあがった。
 夜、朝市通りの火災が、自宅や神社のある東にむかってどんどん燃えひろがってくる。家が燃える前にコートやふとんをもってこようと、午後11時ごろ自宅にもどった。
 電線が地中化されていた「わいち通り」をのぞいて街灯が消え、家々は倒壊し、西側の街はもうもうと燃えている。地獄だと思った。
 朝市通りの西の端には重蔵神社の「産屋」がある。舳倉島の女神が蛇神となって海をわたり、輪島の男神とであって出産したとつたえられている。1月4日に確認にいくと、周囲の家々とともに焼失し、強烈なにおいがただよっていた。がれきの下で生きていて、携帯電話で話していたのに、救出されないまま火にのまれた人も少なくなかった。

2024年2月12日

2日から炊き出し

 家族や神社の職員らと2日から炊き出しをはじめた。津波避難所になっていたホテルに110人が避難していたから、おにぎり110個をもっていった。その後は毎日100個単位で増えていく。「お祓い料」としてうけとった2トンの米を、倒壊した建物からひっぱりだし、プロパンガスで炊いた。
 輪島唯一のフランス料理店「ラトリエ・ドゥ・ノト」のシェフ池端隼也(としや)さんら飲食店関係者も、それぞれの店から食材をもちよって2日から炊き出しをはじめていた。
 神社がごはん、料理人たちがおかずを用意する。知り合いの飲食店をこじあけて資材を拝借して電話すると「店のものは食材でもなんでもつかえ」と言ってくれた。だから最初は、能登牛やアワビといった正月用の高級食材もスープにした。
 4日には金沢の石浦神社が12時間かけて支援物資をとどけてくれた。5日には、世界の被災地で食事支援をする米国のNGO「ワールド・セントラル・キッチン」から調理器具や食材がとどき、1日2000食を提供できるようになった。
 避難所の汚い簡易トイレをつかいたくないお年寄りは水分をひかえるから、血液がドロドロになる。ラーメンやレトルト食品ばかりでは塩分が多すぎる。医療関係者の助言で、塩分はものたりない程度におさえ、野菜とタンパク質をとれるように工夫した。あたたかい食べ物は、みんなからよろこばれた。

「不法占拠」

工房長屋での炊き出し=2024年2月

 炊き出しをするにも屋根のある拠点がほしい。重蔵神社の西隣に「工房長屋」という市の施設がある。ここを「不法占拠」した。市の災害対策本部にでかけて顔見知りの幹部に提案した。
「うちは大量に食事を提供できるんで炊き出しをします」
「やめろ。問題がおきたらだれが責任とるんや」
 幹部は声を荒げた。
 外部からのボランティアによる炊き出しは小規模なものばかりで、1000人単位の食事は提供できない。行政に怒られても「やめる」という選択肢はなかった。
 災害救助法によると、被災者は炊き出しや配給で1日3食の提供をうけ、その費用は国や県が負担するとされている。炊き出しは本来市役所の仕事だが、役所にもそんな余裕はない。ならば民間がやるしかない。神社や料理人たちの炊き出しの実績を追認するかたちで、1日1食分、行政から委託されることになった。

車中泊や在宅被災者に物資を配布

 避難所にいる人たちは2月中旬には1日3食とれるようになり、支援物資もくばられた。だが、在宅や車中泊の被災者にはいっさい公的支援がない。2月半ばまで宅配などの物流はとまっており、車がなければ買い物もできない。
 そこで1月5日から支援物資をくばりはじめた。SNSや口コミで「10時から配布します」などと知らせて、1月と2月はほぼ毎日配布した。のちに一部有料にしたが、2025年11月までつづけた。

支援団体の撤退後も継続できるように

神社の駐車場にボランティアの拠点がもうけられた=2026年2月

 震災から2年もたつと、外部の支援団体は撤退しはじめる。その前にボランティアのプロからまなび、自力で生活支援や防災活動ができるようにしなければならない。神社をふくむ13団体が2025年1月、「輪島支援協働センター」をたちあげた。
 市社会福祉協議会が10月末で災害ボランティアの派遣業務を縮小すると、その業務もひきついだ。
 年寄りにとっては行政などの「無料相談」さえも敷居が高い。「こんなことまで相談してええんかな」と遠慮して、自分のなかにためこんでしまう。ところが、地域の人との集まりやカフェでおしゃべりすると心配ごとがポロッとでてくる。
 たとえば、ある高齢男性は「地震のときからお墓のなかがむきだしになっている、どうにかならんか」ともらした。本来は業者に依頼する案件だが、すぐに業者がみつかるとはかぎらない。安心してもらうため、コンパネ(コンクリートパネル)で蓋をしてブルーシートでおおう応急措置をほどこした。
「私らの年代には墓はまだ身近じゃないけど、お年寄りにとっては遠からず自分がはいる場所であり、そこがこわれたままでは心配で病んでしまうかもしれない。『これは対応できない』と白黒をはっきりさせるのではなく、グレーゾーンもうけて、なるべく被災者によりそっていきたい」

災害経験をつたえる「恩返し」

 2026年2月に重蔵神社をおとずれると、駐車場にプレハブの建物がたち、明治学院大や東洋大などの学生ボランティアがつどっていた。
 ボランティアにきた若者には、地震や豪雨の様子や被災状況について写真をみせながら話し、朝市通りや豪雨の場所、昭和30年代の水害の水位をしめす「水害水位表示塔」などを案内する。

下から1945、1958,1956、一番上の1959年は2㍍超。
2024年豪雨の水位は56年とおなじ130㎝前後。

 事務所にもどったら、大学や自宅の周囲に安全な場所があるかスマホの地図でさがしたり、「いざというときに助けあえる人」をリストアップしたりする。
・災害時は携帯電話がつながらないから家族との集合場所をきめる。
・ナイロン袋を携帯すれば水や食料をわけたり皿や手袋がわりにもなる。
・アメなどの非常食やモバイルバッテリーを携行する。
・旅行には厚底の防水の靴をはく。
……といった「教訓」もつたえる。
 能登半島地震では、公務員もみな被災者だった。膨大な支援物資を避難所にとどける職員は10人ほどしかおらず、圧倒的にマンパワーがたりなかった。一方、正月だから避難所には若者が多かった。住民のなかに防災知識のある人がいて、炊き出しや物資配布などの役割をわりふれば、もっと円滑にうごけたはずだ。
「震災と水害でボランティアの人からまなんだ経験を今度は私たちがお返ししたい」
 被災地を案内するガイドの養成もしている。
「ガイドをすれば被災者の収入になる。災害についてまなんでもらって多少のお金をいただけば、活動継続にもつながるのでは」

豆まきと大宴会

 重蔵神社では、2月3日の節分に、厄年の男性でつくる「御当(おとう)組」が「豆まき」をしてきた。地震の影響で2024年は組を結成できなかったが、前年の御当組をつとめた氏子が「今年も豆まきをしたい」と申しでた。
 豆まきだけではすぐ終わってしまう。さまざまな団体や金沢の飲食店などに「豆まきするので炊き出しにきてください」とよびかけた。御当組の人たちと神社が酒をふるまって大宴会となった。
 避難所では酒は飲めないし、仕切りがなくてプライベート空間がないから、大声での会話ははばかられる。豆まき後の宴会では、震災後にバラバラになっていた人々が久々に再会し、思う存分かたりあった。久々の楽しい時間だった。

高校生の提案で復興花火

 6月の「輪島市民まつり」は、2万発以上の花火を短時間にうちあげる花火が人気だったが、2024年は中止された。
 県立輪島高校の生徒が「探究学習」の一環で「花火があがったら元気になるのでは」と提案すると、金沢の企業なども支援してクラウドファンディングを実施して、8月の輪島大祭にあわせて「復興花火」を実現させた。
 2025年は、1977年度生まれの同級生がつくる「ちーむ輪島人」が「今年は自分たちがやる」と「復興花火」を打ち上げた。
 中心街の大半は更地になり、震災前のコミュニティは消えた。旧町内であつまる行事は祭りしかない。
「豆まきの宴会で、昔ながらの顔ぶれで話をしたり飲んだりする時間はすごくいやされた。輪島の人は祭りが好きで外にでた人も帰ってきて協力してくれる。地域にとって、神社の行事や祭りがすごく大事なんだなと、あらためて実感しました」
 重蔵神社は今後も祭りや行事をつづけていく。

2012年の夏祭り

 重蔵神社は不思議な神社だ。祭神の天冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)は大国主命の親で、出雲からきて能登半島を平定したとされているが、重蔵は「へくら」であり、舳倉島を信仰の対象としたという説もある。
 今回の地震で本殿が全壊したため御神体は金沢の石浦神社に避難した。
「御神体は鏡ですか?」と私がたずねると
「箱にはいっていて見たことがないんです」
 神職は一生に一度だけ見てもよいが、祖父も父も箱をあけなかった。開けようとすると鍵がみつからず「見るな、と神さまに言われている」と考えたという。
 もうひとつの不思議は薬師如来像だ。かつて重蔵神社の隣に薬師如来をまつる「浜薬師」があり、昭和50年代まで尼さんがすんでいた。2007年の能登半島地震でお堂はこわれたが、薬師如来像は無事だった。今回も、手足は破損したが顔は無傷だったという。

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