谷根千散歩 鴎外と東洋文庫

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文豪もそぞろ歩き

 作家の森まゆみさんが「谷根千」と名づけて有名になった谷中・根津・千駄木は2016年の大晦日に歩いた。

 日暮里駅からマンション建設で富士山が見えなくなった富士見坂をたどり、年越しソバのため行列ができた天ぷら屋などをのぞいた。
「今日はあったかくて楽だ!」
「楽よねえ」……
 断定調の下町言葉が心地よい。


 共産党と公明党のポスターがめだつ下町の商店街は、明治から昭和にかけては、夏目漱石や森鴎外、樋口一葉、永井荷風らの文豪がそぞろ歩きをしていた。「岡倉天心公園」もある。

浄土宗の寺が密集

 あれから10年、2026年2月に地下鉄本駒込駅でおりて森鴎外記念館をたずねた。

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 駅からちょっと歩くと、門柱に象をかざった寺がある。浄土宗の瑞泰寺(ずいたいじ)。釈迦の母のマーヤーが、6本の牙を持つ白象が胎内にはいる夢を見て妊娠した、という故事にちなんでいる。
 隣にはジャーナリスト長谷川如是閑の墓がある清林寺(浄土宗)。

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 教会建築のような本堂の光源寺(浄土宗)には高さ6メートル超の十一面観音像が鎮座する。東京大空襲で焼失したが1993年に再建された。「大観音通り」という通りの名はこの観音によるらしい。1772年建立の庚申塔は高さ2.5メートルもある。榛名山から移植したという古木「蓬莱の梅」は紅色の花を咲かせている。

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1年でスピード離婚、40歳で再婚

いかにも昭和の店

 ほどなく鴎外の旧宅跡である文京区立森鴎外記念館に到着した。鴎外の家は品川湾の海を一望できたから「観潮楼」とよばれたが、火災と戦災で焼けてしまった。

 コンクリート打ちっぱなしの記念館は地下が展示室になっている。
 鴎外は島根県津和野町に生まれ、東京にうつってきた。東京帝大での成績がふるわなかったため在学中は国費留学できず、陸軍にはいって軍医となり、22歳のときドイツに留学した。
 1889年に最初の結婚をして長男をもうけるが90年に離婚する。その2年後に「観潮楼」にすみはじめる。
 1902年、40歳のときに再婚した妻は評判の美人だった。
 1908年、実弟と1歳の次男を失う。当時、子どもを失うのはあたりまえだった。自分を超越した「なにか」なしには、大切な人を失った悲しみや苦しみを乗り越えられるものではない。鴎外の場合はそれは信仰だったのか、あるいは「家」意識だったのかもしれない。

石見人として死ぬ

 鴎外は、1904(明治37)年と18(大正7)年、22(大正11)年の3回遺言を書いている。
 最後の1922年の遺言は、60歳で亡くなる3日前の7月6日に、東大時代の親友で医師の賀古鶴所(かこつるど)をよんで口述筆記させた。

 余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス……墓ハ 森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス……宮内省陸軍ノ榮典ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ

 鷗外は、陸軍の軍医総監や陸軍省医務局長など立身出世をとげたが、「あらゆる肩書をはずした「石見人・森林太郎」として死にたいと願った。
 勲章をほしがるどこぞの議員とはちがう。裸の人間でありたいという意識がすがすがしい。デスマスクがあるが、本人が生きていたらいやがったのではないだろうか。
 大御所の老作家というイメージだけど60歳で死んでいた。そういえば、おなじく大御所の夏目漱石は49歳だった。

微妙なカーブは明治大正の町並みの名残

富士塚は古代信仰の跡?

 もうひとつの目的地「東洋文庫ミュージアム」にむかう。
 「縁結び子育て不動尊」という脇道にはいると、地蔵堂の隣は広々とした「天祖神社」で、樟やイチョウの巨木がそびえている。

 1189年、源頼朝が奥州征伐の途中にちかくにきた際、松の枝に大麻がかかっている霊夢を見て神明をまつったのがはじまり。江戸時代は駒込神明宮とよばれ、駒込村の総鎮守だった。祭神は天照大御神。

 さらにちょっと先には「富士神社」がある。
 本殿は、こんもりした築山「富士塚」の上に鎮座する。急な石段の左右には「浅間神社」「加州」(加賀)などと赤い文字がきざまれた碑が林立している。本殿わきにはタブノキの巨木がある。かつてはここから富士山が見えたのだろう。

 塚は前方後円墳跡という説もある。古代の地形の上に信仰の山が築かれたと考えられるそうだ。

外国人の目からみた「日本」

 東洋文庫ミュージアムは、徳川綱吉の側近だった柳沢吉保が築いた大名庭園「六義(りくぎ)園」のむかいにある。入場料1000円。
 東洋関連の100万冊の蔵書は、大英博物館などとならぶ世界的なコレクションだ。オーストラリア出身のジャーナリストG・E・モリソン(1862~1920)が中国に所蔵していた蔵書2万4000冊を、三菱3代目当主の岩崎久彌が1917年に一括購入したのがはじまり。壁一面に豪華装丁の本がぎっしりつまった「モリソン書庫」はハリーポッターの世界を彷彿とさせる。

 ミュージアムは2026年1月にリニューアルオープンしたばかりで、「ニッポン再発見 異邦人のまなざし」という企画展がもよおされている。
 魏志倭人伝や随書、414年の広開土王の碑にはじまり、マルコポーロの「東方見聞録」、モンゴル人の歴史についてのローマ人の報告書(13世紀)。古代から江戸時代まで日本地図の基本形「行基図」のうち14世紀に海外にもたらされたもの……。
 1549〜66のイエズス会の書簡集には日本の風土について「動物を食べずに健康と長寿を促す」「男色」といった驚きをしるす。源家康(徳川家康)が、英国王ジェームス1世にあてた手紙も彼が外交に重きをおいていたことがわかって興味深い。このときの英国の使節は駿府の町を「ロンドンに匹敵するほど大きい」としるした。
 朝鮮通信使の記録やペリーの日本遠征記……幕末になると多くの外国人が精細な絵ものこしている。明治のラフカディオ・ハーンやチェンバレン、モースも、日本人の暮らしぶりをおどろきとともに記録している。
 外の人の目でそれぞれの時代の「日本」が浮き彫りになっていて興味深かった。

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