大井川2025㊥河原砂漠と「水返せ運動」

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「越すに越されぬ」というほどの水量を誇った大井川は今、広大な河川敷の大半は白い土砂におおわれ、細い筋の水がちょろちょろと流れているにすぎない。
 大井川の本流は実は川ではなく、導水管になってしまったからだ。

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ダム群が水を収奪

2024年

 延長168キロ、流域面積1280平方キロの大井川は、フォッサマグナ西縁の糸魚川静岡構造線を流れているため土砂流出が多く、広大な河原を形成してきた。
 流域の森は江戸への木材供給地で、「越中さん」とよばれる富山の職人が冬場、木製の仮ダムを崩壊させる「鉄砲流し」によって下流に木材を流していた。その風景は1960年代、ダム群が建設されることで姿を消した。
 大井川水系で最初の水力発電所は1910年(1911年という説も)に日英水電(株)が建設した小山発電所(出力1400キロワット)だった。1936年に廃止され、現在は川根小山駅のちかくに遺跡がのこっている。
 1928年には源流部に田代ダムが完成した。このダムの水は隧道によって東側の富士川水系早川へ流された。以来現在にいたるまで、大井川源流の水は富士川にうばわれつづけている。

大井川の水が流れる橋=2024年

 戦後になると次々にダムが建設され、大井川水系には現在32のダム・堰堤がある。大井川の水の大半は延長81キロにおよぶ導水管(トンネル)を流れるようになってしまった。

水源地ネットhttps://www.dam-net.jp/dam_content/topix/02_topix_list/2307/t230701.html

20キロの流れが消えた

 とりわけ深刻な被害をもたらしたのは1960年に完成した最下流の塩郷堰堤(堤高3.2m)だった。ここから発電用水が取水され、笹間川ダムをへて川口発電所で発電したあと大井川に放流される。堰堤から川口発電所までの約20キロの区間は水がない「河原砂漠」になってしまった。右に左に蛇行する景勝地「鵜山の七曲り」の流れもなくなった。上流側は土砂が堆積し水害が頻発するようになった。
 「発電ダム建設に伴う大井川の流況の変遷」(蔵治光一郎・溝口隼平)によると、塩郷堰堤建設前の長期平均流況は平水51.0トン、低水29.4トン,渇水16.4トンだったが,建設後は平水10.7トン,低水5.2トン,渇水2.6トンに減った。冬季の渇水時は6分の1になっていた。
 旧川根 3 町(本川根町、中川根町、川根町)では1980年代後半、官民による「水返せ運動」がもりあがり、デモ行進や河川敷での決起集会が開催された。中部電力とのきびしい交渉の末、1989年の発電ダムの水利権更新にあわせて、塩郷堰堤から毎秒 3 トン(冬場以外は 5 トン)の放流が決定した。
 11月半ばに塩郷堰堤をたずねると、6つの水門のうち端っこのひとつだけが開放されていた。これが「水返せ運動」の成果という。

塩郷堰堤の下流の河原砂漠。右端の水門だけ開き、わずかな流れができている

水問題はリニア新幹線へ

 その後、水返せ運動の対象は、富士川水系に最大毎秒4.99トンの水をうばわれている田代ダムにうつった。1975年の水利権更新で、静岡県は4.99トンのうち2トンを大井川にもどしてほしいともとめたが、東電は「水利権は半永久的な既得権」と拒否した。長年の交渉の結果、2005年の水利権更新にあわせて、0.43(12月6日 ~3月19日)~1.49トン(5月1日~8月31日)の河川維持流量が返還された。
 「命の水」をうばわれつづけた大井川流域の人々が、リニア中央新幹線建設で水をうばわれることに反発する事情は、歴史をたどるとよくわかる。

 河原砂漠化は、日本一の茶どころのお茶農家にも深刻な影響をおよぼした。大井川の川霧が太陽光をさえぎることが、うまみ抜群の高級茶づくりに不可欠だったからだ。(つづく)

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