■河出文庫251208
都では追儺や御霊会のように鬼を魔物として退治する祭りが盛んだが、地方ではなまはげのように鬼(来訪者)を歓迎する祭りが多い。
ヤマトでは、古来の神を悪鬼として追いやり(追儺)、新しい神に従うものはヤマト人とされた。従わぬ者は「まつろわぬ者(まつりに参加しない者)」として排除した。まつろわぬ者が信仰する神すなわち「鬼」は、ヤマトの国教である仏教によって、地獄の番人に落とされた。
東国には、鬼を社名にする神社が多い。能登の岩井戸神社(猿鬼の宮)もそのひとつだ。「鬼渡神社」は18社のうち15社が福島県にある。
大宮の氷川神社の摂社・門客人神社はもとはアラハバキ神社とよばれた。アラハバキはヤマトに討伐された側の神だった。氷川神社の祭神がスサノヲと確認できる文書は江戸時代までしかさかのぼれず、アラハバキこそが氷川神社の祭神だったという説もあるという。
源頼光が退治した酒呑童子は「元々われわれは先祖伝来の地である比叡の山にすんでいたのに、伝教大師という悪人がやってきて、われわれを追い払って延暦寺を建てた」と訴えた。
東国人にとっては鬼は神とほぼ同義だった。これら「まつろわぬ神」は縄文の神々であり、鬼や天狗や河童など、各地で独特の信仰や伝承を生みだした。ユネスコ無形文化遺産となった「来訪神の祭り」のナマハゲやねぶたも、本来は「来訪神」ではなく、もとからの土俗神だった。
岡山の温羅神社(吉備津彦神社末社 岡山市北区一宮)の温羅は、外国から飛来して製鉄技術をもたらした。崇陣天皇は、吉備津彦命を討伐軍の将として温羅を破った。これが「桃太郎」のモデルという説もある。温羅は、製鉄技術によって豊かさをもたらした存在であり、温羅が悪事を働いたという伝承はない。人々に親しまれていた。
鬼は、福をもたらす「かみ」だったのに、まつろわぬゆえに貶められて悪鬼とされたのだ。
一方、「怨霊」は鬼とはちがい、都を中心に跳梁跋扈する。
歴代天皇で唯一臣下に暗殺されたのが崇峻天皇で、その後、蘇我馬子の姪の推古天皇が即位し、馬子の甥の厩戸皇子が皇太子になる。崇峻の第3皇子の蜂子皇子は北に逃れ、墓は出羽三山神社神域内にある。崇峻や物部氏の怨霊を蘇我氏らはおそれた。
蘇我氏は乙巳の変まで4代110余年にわたって栄華を極め、29代欽明から34代舒明まで蘇我系の天皇だった。
蘇我一族は、645年の乙巳の変で虐殺されて怨霊と化す。
明治17年、1200年間の時を経て法隆寺夢殿の厨子がひらかれ、等身大の聖徳太子像としてつくられた救世観音像が開陳された。光背が観音像の後頭部に大きな釘で深々と打ちつけられている。梅原猛は「呪いの人形」と評し、法隆寺は蘇我氏といっしょにほろぼされた聖徳太子一族の怨霊を鎮める施設だと説いた。
法隆寺と四天王寺で奉納される舞楽「蘇莫者」の踊り狂う怪物は、四天王寺は物部守屋で、法隆寺は蘇我入鹿だという。飛鳥時代は、怨霊の祟りを怖れ、両寺において鎮魂と祟り鎮めをおこなう時代だった。平安時代になっても怨霊をおそれ、神泉苑において全国の国の数である66本の鉾を立て、池に納めて厄払いとしたのが祇園御霊会のはじまりだった。
「鬼門」や「北枕」という信仰の起源はヒミコの時代にあるという。
「ヒミコの鬼道(鬼神道)」とは、原初的な神道祭祀と道教との複合であり、当時の最先端の科学技術だったという。道教の「天円地方」(天空は丸く、大地は四角)という宇宙観をもとに、ヒミコが「前方後円墳」を発明し、以後300年つづく国家的流行の手本になった。「円=天」において神霊をうけつぎ、「方=地」において即位を宣言する。これが「天孫降臨」の儀式であると解釈する。「北枕」という風習はわが国の風習にはなかったが、道教の風習をとりいれて前方後円墳から被葬者は「北枕」になった。
東北(丑寅)の方向を「鬼門」とするのは日本、とりわけ都で強く信じられた。寺院の鬼瓦は「鬼門除け」であり、御所の東北角だけ塀が凹ますことで、鬼門を欠けさせていた。
江戸の鬼門は、神田明神と浅草神社が表鬼門の守護として設定された。神田明神は、大手門前にあった将門明神社、通称・片目明神を現地在地にうつし、守護神として祀った。江戸徳川の鬼門守護は、鬼神・将門こそ第一であった。表鬼門はさらに先に三社祭で有名な浅草神社がある(浅草寺ではない)。裏鬼門の守りは山王日枝神社だった。鬼門守護の最終施策は水戸徳川の設置だ。家康は水戸家は鬼門守護の役割があるため「将軍継嗣」から除外した。ところが最後の将軍は、水戸徳川の慶喜だった。「鬼門の将軍は、幕府の滅亡を招いた」とも言われた。
家康は、信長・秀吉の「風水断ち」を徹底し、「風水断ち」という呪術的手法によって天下を取ったがゆえに、家康はそれをおそれた。
そこで鬼門の「ダミー」をつくった。鬼門軸から30度ずれている寛永寺と増上寺があたかも鬼門軸であるかのように浸透させた。何者かが風水断ちとして寛永寺と増上寺を破壊しても、真の江戸風水は無傷であるようにした。ちなみに、東海村原子力発電所は東京の鬼門にあたるという。
桃太郎が子分に猿・雉・犬をえらんだのも鬼門に関係がある。「鬼門」は東北(丑寅)の方角で、その正反対の南西は「正」の方向に、申・酉・戌となる。鬼に立ち向かうための「正義」は、猿と雉と犬が体現する。わが国では鳥といえば雉のことだった。
鬼門の方位・丑寅は一体で「艮(うしとら)」とも称する。「ごん」とも読む。これを五行の「金」と重ね合わせて「金神」が生まれた。安倍晴明はこれを最強の祟り神とした。金神は道教にも神道にもないが、俗習として広まり、江戸期には暦の迷信の代表格になった。金神を最高神として主祭神にしたのが金光教であり、「鬼門の金神」が世の中の立て替えをおこなうとしたのは大本教だった。
人々が鬼門を信じなければ、延暦寺も神田明神もなかったかもしれない。
迷信とはいえ1000年以上信仰されることで、鬼門は日本人の心身と一体となった。
「鬼」という観念でかくされた縄文の信仰を色濃くとどめているのは熊野だ。ゴトビキ岩はその名で呼ばれるようになったのは近年のことで、以前は「天の磐盾」と称されていた。
熊野3社は本来、本宮大社=家津御子大神、速玉大社=熊野速玉大神、那智大社=熊野夫須美大神を祀るもので、3神とも記紀には登場しない。とくに本宮の家都御子大神は古い縄文神だという。
熊野の正体は、「隠(おん・おぬ)」であり、「神野(かみの)」である。それは「鬼(おぬ・かみ)」と同一だった。太古より、鬼が隠れすむとされていた。
三輪大社の祭神であるオオモノヌシは、オオクニヌシでもオオナムヂでもないと筆者は断じる。
オオモノヌシは丹塗りの矢となって流れを下り、用足し中のセヤダタラヒメの女陰を突いて懐妊させる。生まれたのが神武妃となる。上賀茂神社の神話とおなじだ。
「箸墓伝説」では、百襲姫は夫のオオモノヌシが夜しか姿を見せないのでいぶかると、小さな蛇が姿をあらわす。驚いて叫んだために、オオモノヌシは恥じて三諸山(三輪山)へのぼってしまう。姫は悔やんで箸で女陰をついて死んでしまう。このため埋葬された墓を箸墓と呼んだ。
「オオモノヌシ」は「偉大なる物部(もののふ)の主」の意味で、物部氏の氏祖であるウマシマジの伯父で後見人である長髄彦(ながすねひこ)であると筆者は主張する。三輪山の神は長髄彦であり、崇神王朝に祟りをなした「神宝」は、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。正体を蛇(おろち)としているのは「祟り神」としておとしめる意図があった。かつて存在した三輪王朝は長髄彦王朝であり、オオナムヂを鎮魂するために杵築(出雲)大社を建立したように、長髄彦を鎮魂するために大神神社を建立した、と筆者は推測する。
ただ、長髄彦はの主人は饒速日命であり、神武に降伏することを選んだ饒速日命に殺される。軍事部門の総大将にすぎないナガスネヒコが祭神になるのは不自然ではないだろうか。
それより村井康彦が言うように、出雲勢力が大和に進出して邪馬台国をつくり、出雲族の神として大神神社をまつったと考えたほうが説得力があるような気がする。
「あさま山」は全国にあり、富士山ももとは浅間山と呼ばれていたようだという。「あさま」とは火山の古語で、火山はすべて「あさま」であった。
この説明は納得できるが、
−−「あさま」は「あそま」から転訛したものであり、「あそま」は「阿蘇」からきている……ほかの「あさま山」は、いわばそのミニチュアであった−−
というのは、逆のような気がする。あさま、という言葉が先にあり、火を吹く阿蘇山をも「あそ」と呼んだと考えたほうが理解しやすいのではないか。鶏と卵の関係かもしれないけど。