悲嘆とケアの神話論 須佐之男と大国主<鎌田東二>

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■春秋社

 鎌田さんは「スサノオの子分」を自称していた。この本はステージ4のがんを宣告されたあとわずか1週間でかきあげた「遺書」であり、神話について客観的な立場からの研究を主としてきた宗教学や人類学に対しての挑戦状であり、「古事記」を含む日本文学史を十分に踏まえることなく日本文学に従事してきた文学者たちにたいする抗議の書である……という。

 以下、要約と感想。 
 須佐之男は能動的で動乱を引き起こす神。大国主神は逆に非能動的で受動的な神で、その受動性が最高のパフォーマンスを発現する。それは現代の「ケア」にかかわる、という。
 筆者はまずスサノヲと大国主神を語り手とする神話詩をつづる。
 
 イザナミが最後に産み落とした火の神カグツチ(秋葉神社にまつられている!)は、イザナミの女陰を焼いて殺してしまった。そのため父イザナギに斬り殺される。ほとばしった血や体から、建御雷神之男神など16神が「成り出」た。
 イザナミに会いに黄泉の国を訪れたあと、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いをする。左目を洗って「天照大御神」、右目を洗って「月読命」、最後に鼻を洗ってスサノヲが「成った」。
 スサノヲは、母の思いを踏みにじり、独り善がりな清らかさにひたる父イザナギが許せない。
 ギリシャ神話のディオニュソスと同様、父イザナギ(ゼウス)にたいする強烈な憎しみと、母イザナミ(セメレー)にたいする愛惜に引き裂かれて成長した。母が恋しくて泣いて暴れるスサノヲをイザナギは根の国に追放する。姉アマテラスも自分のことをわがままで粗暴なやつとしか見なかった。
 下界におりて、自分同様あらゆるものを破壊するヤマタノオロチを退治する。
 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

 スサノヲは最大の暴力の持ち主だが、八岐大蛇を退治して日本で最初の和歌を詠み、歌う文化英雄神となった。この和歌が「言向和平」の複線になる。

 一方、大国主神は、兄神たちに「殺された神々の中でももっとも手ひどく」2度も殺害された。イエス・キリストは一度殺されて贖罪の神としてよみがえったが、大国主神は2度も殺され、母たちの祈りでよみがえった。
 遠藤周作がえがくイエスのとそっくりだ。(「イエスの生涯」)
 −−イエスは、人々の支持を失い、奇跡も起こさず、無力な人間として殺された。なぜそんなつらい思いをしなければならなかったのか。だれよりも苦しみを背負わなければ、苦しむ人に寄り添えないからだ。「愛」ゆえに無力で無能で救いのない、徹底的にみじめな最期を迎えなければならなかった−−
 イエスという補助線をひくと、大国主の死と再生の意味がたちあがってくる。
 大国主神は、スサノヲの子孫のなかで最弱の神だったのにスサノヲの霊統を継いだ。最大の痛みをうけた最弱の神が最強に転化した。
 母や妹によってよみがえった大国主神は、さまざまな力を引き出しつなぐコーディネーター「縁結び」の神だ。自力ではなにもできないが、他力を得て危難を切り抜け、国作りという大事業をなした。大河ドラマの「どうする家康」がえがく情けない家康は大国主神をモデルにしたのかもしれない。
 せっかくつくった国を天孫にゆずる「国譲り」は、歴史における和平交渉と平和実現の神話的モデルだ。「大政奉還」から明治維新の時も、1945年の敗戦時も一種の「国譲り」だった。いい意味でも悪い意味でも日本の平和主義の特殊性をしめす。「戦争をしない神」大国主の国譲りは、現在の世界の悲惨を乗り越えるひとつのヒントになるのではないか、と言う。
 大国主神は因幡の白ウサギを助けると同時に、鼠に助けられる。「助ける神」が「助けられる神」となって世界を調和にみちびく。それは「傾聴する神・ケアする神」としての特性を表している。
 ケアの領域では共感や傾聴に加えて「インターパシー」(異他的理解)が重要と認識されつつある。異種間コミュニケーション能力において、大国主神は群を抜いてすぐれていた。

 鎌田はさんはなぜ、スサノオと大国主にたいするこだわりを「詩」というかたちで表現したのか。
 彼によると学問には、①道としての学問、②方法としての学問、③表現としての学問の3つがある。②が一般に考えられている学問だ。
 ③の「表現としての学問」とは、学問的問いを詩や物語や演劇で表現することであり、ギリシャ哲学が重視した「レトリック」に近い。
 レトリックは、世界から切り離された自己(コギト)をもとにするデカルト哲学とは反対で、議論や論争を適切な方向に導く対話的理性といえる。レトリックの哲学的な考察が記紀とつながるとはこの本を読むまで気づかなかった。

 神話知の考察によって、日本の国土が神々の子どもであり、それぞれに神名と地域特性や性格をもち、魂も体ももつ命であるというとらえ方があきらかになる。これが、天台宗の「草木国土悉皆成仏」という天台本覚思想につながる。草木も国土も「神の子ども」なのだから,本来神性をもっている。
 見田宗介は、日本の「汎神論」では、日常的な生活や「ありのままの自然」がそのまま価値の彩りをもっていて、罪悪はむしろ局地的・一時的・表面的な「よごれ」にすぎない……と言った。俳句や詩は、生活における「地の部分」としての日常性を愛おしみ、「さりげない」ことをよろこび、「なんでもないもの」に価値を見出しているという。

 キューブラー・ロスは、死への過程を、①否認と孤立 ②怒り ③取引 ④抑うつ ⑤受容と、5つの段階にモデル化した。重要なことは「否認」から「受容」に到りうるということを世に認識せしめた点だ。
 「身心変容」という観点からすると、病がもたらす「身心変容」はフィジカル面では不可抗力だが、同時にメンタル面やスピリチュアル面ではそれをひとつの警告とか啓示とかメッセージとして受け止め、ちがう生き方やあり方に変容させる可能性をもっている。
 鎌田さんの場合は、告知を自分で受容することよりも、周りの他者、家族や友人にどのように伝えるのほうが悩ましかった。手術後の最悪の体調のなかでも「病の中にあることの苦がいかなるものであるかをより深く具体的現実的に体験することになり、考えるところが多々あった」。後悔や抑うつよりも、自分の身体やがんにたいしても「感謝」がわいてきたという。

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