陰陽師・安倍晴明(921~1005)は、藤原道長や紫式部、清少納言と同時代に生きた。小説や漫画では、鬼と対決し、式神をあやつり、怨霊を調伏する超能力者としてえがかれる。実際の陰陽師は、古代から明治にいたるまで、国家や個人の命運や吉凶を時間と方位の知識を駆使して占ってきた。当時の人びとから見れば、陰陽師は超能力者だったのかもしれない。
2026年2月、陰陽師の里とよばれる福井県おおみ町名田庄(2005年までは名田庄村)の納田終(のたおい)地区をたずねることにした。
【以下は、斎藤英喜「陰陽師たちの日本史」「名田庄村誌」の内容と「暦会館」の展示をもとにしています】
応仁の乱で疎開
陰陽師は、星の動きをもとに国家や天皇の運命を占う。背景には中国の陰陽五行の思想があった。
7世紀初頭、天武天皇は「陰陽寮」という役所をもうけ、天文・暦・ト占などの知識を国家体制にくみこんだ。10世紀の安倍晴明のころからは、安倍氏が天文を賀茂氏が暦を担当した。鎌倉時代には安倍氏は「土御門」という公卿の姓を名のることをゆるされた。
戦国時代の1565年、賀茂家の当主在富(あきとみ)が死去し、後継ぎがないため賀茂家が断絶した。安倍有春の次男、在高(あきたか)が賀茂家の養子になった。以来、賀茂氏の名はのこったものの、天文も暦も安倍(土御門)家が差配することになった。
賀茂在富の息子在昌(あきまさ)は、キリスト教に入信している。1563年に来日したイエズス会のフロイスは著書「日本史」のなかで「日本で最高の天文学者の一人で公家」である「アキマサ」が、キリスト教徒から日蝕月蝕や天体の運行について説明をうけて納得したため京都で洗礼をうけて入信したとしるした。彼の入信が、賀茂家断絶の一因と考えられている。
応仁の乱(1467〜1477)がおきると、安倍有宣は所領のあった若狭国名田庄に避難した。京都から80キロ、日本海の小浜から25キロの鯖街道沿いの里だ。以来曾孫の久脩(ひさなが)まで4代、安倍家はこの地に拠点をおき、都と往来して陰陽寮の仕事をつづけた。
豊臣秀吉は、拾丸(秀頼)へ呪詛をしかけたとして甥の秀次とその一家を皆殺しにしたが、呪詛をうけおったとされたのが土御門久脩だった。秀吉は陰陽師を「国家を亡ぼすもの」として弾圧し、尾張などに追放した。関ヶ原の合戦(1600)で徳川家康が勝ったあと、土御門家は約100年ぶりに都にもどった。
陰陽道の神「泰山府君」

2026年2月、日本海側の小浜の町から南川をさかのぼった。ところどころ雪がのこる標高100メートルほどの地区の名は納田終(のたおい)。名田庄という荘園が終わるところという意味らしい。2020年には50軒104人だが、1968年は93戸365人をかぞえた。地区の下流側には「勘定橋」という橋があり、納田終にはいるには金を払わなければならなかったとつたえられている。祭では今も家の「格」の順番にすわるという。


集落の氏神である加茂神社の舞殿はかやぶき屋根で黄緑色の苔が美しい。石段をのぼった本殿からは、南川沿いのゆるやかな谷の集落が一望できる。神社の隣には代々神主をつとめる谷川家の墓がならんでいる。

集落のいちばん上の薬師堂のかやぶき屋根は蛍光色のような苔におおわれ、雪解け水の雫がしたたりおちている。今は吹き抜けの東屋だが、1617年の再建当初は板壁があった。
さらに谷沿いの杉林を100メートルほどのぼった堰堤の手前の石塔が土御門家3代(有宣・有春・有脩)の墓所だ。自然石の墓標で、両側に小さな五輪塔が配されている。幕末の1853(嘉永6)年に建立された。

かつて納田終には、加茂大明神・御霊明神・泰山府君・吉澄河上大明神の四神がまつられていたが、1908(明治41)年に加茂社に合祀された。
御霊明神は、「晴明御霊社」「御霊川上明神」であり、安倍晴明の関係だった。
「泰山府君」のルーツは中国の民間信仰にある。泰山は山岳信仰の聖地であり、山上には、人間の寿命をを記した帳簿があると信じられていた。冥府の王である泰山府君に、死者としての戸籍を抹消し、生者の戸籍にもどしてほしいと願うのが「泰山府君祭」だった。「泰山府君祭」は安倍晴明によってはじめられ、平安時代後期に貴族社会に定着した。集落の泰山府君の社は、安倍有宣が永正年間(1504~21)、屋敷地の一角に「天社泰山府君社」を建立したことにはじまる。

集落でひときわ立派な庄屋屋敷のような建物には「土御門神道本庁」という表札がかかっている。そのわきの「土御門総社」という鳥居をくぐって石段をのぼると、高さ50センチほどの石垣をつんだ「天壇」がある。

4面には「白虎」「朱雀」「玄武」「青龍」としるされた白赤黒青の鳥居がたっている。天の四方の方角を守護する神獣だ。2月にはここで「泰山府君本命属星祭」(星祭)がもよおされる。
新興宗教かと思ったが、陰陽道の本流であり、その歴史は江戸時代までさかのぼるらしい。
国学をはくぐんだ西洋天文学
世界最強の帝国だった明が1644年に滅び、最先端の学問と信じられていた儒学の根拠が失われた。絶対的な権威である「中華思想」が崩壊した。中華思想を相対化する際、西洋の科学が大きな役割をはたした。
本居宣長は西洋天文学の優位性を説き、地上は空に浮かんだ球体(地球)であるとみとめていた。アマテラスを太陽そのものとし、太陽の子孫の天皇が統治する「皇国」は、ほかの国とは比較できない優秀な国であるとした。そうした宣長の国学の前提には、太陽が地球を照らしているという西洋天文学の知見があった。さらに宣長は太陰太陽暦の限界を指摘して「太陽暦」こそが真の暦であると論じた。
宣長の「没後の弟子」平田篤胤(1776~1843)は「地動説」を肯定した。そして「国稚く、浮脂の如くして、九羅下(くらげ)なすただよへる」という古事記の神話は、地球が天界を旋回している意味で、古事記は地動説をとなえていたと解釈した。
西洋の新しい知識とであうことで中華思想を相対化し、「日本」を発見することになった。
陰陽道の再興に力をつくした土御門泰福も、西洋天文学に接することで、中華思想と異なる日本固有の信仰「神道としての陰陽道」を創造した。それが「天社神道」(土御門神道)だった。
陰陽道と太陰暦の終末
1870(明治3)年、「天社神道土御門家免許ヲ禁ス」という太政官布告(陰陽道禁止令)が発令され、納田終の社殿もとりこわされた。神仏分離令、修験道廃止、禁厭祈祷の医療行為差止め取締りなど「淫祠邪教」撲滅の動きの一環だった。2年後には太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦にきりかえられ、1872(明治5)年12月3日が1873(明治)6年1月1日とされた。
戦後の1946年、「土御門神道(天社土御門神道)」は宗教法人として登録され、復興をはたした。「天壇」などは昭和40年代につくられた。
「徳川の暦」から「天長様の暦」へ

南川沿いを上流にむかって徒歩10分ほどのぼった「道の駅 名田庄」の隣に、おおい町立「暦会館」がある。「暦」の展示に特化しためずらしい資料館だ。小さな施設なのに学芸員と説明スタッフが常駐している。その説明が抜群におもしろい。
太陰太陽暦の作成は複雑な計算と暦法理論が必要で、おなじ暦を二度とつかえない。毎年の暦は、時間と空間を支配する権力の象徴だった。
明治政府は国家神道による「心」の支配とともに「時間」の支配も徹底した。
旧暦を「徳川の暦」、太陽暦を「天長様の暦」と位置づけ、「五節句をいわうな」「民間の暦をつくるな」と命じ、引札(商品宣伝用のちらし)の暦さえも禁じた。

敦賀県(福井)や鳥取県、福岡県では新暦の強制に反対する暴動もおきた。発行者不明の暦が「農家便覧」「九星方位表」などの名でつくられた。「足がつかない」暦ということで「おばけ暦」とよばれた。

農山村では戦後の高度経済成長期にいたるまで、旧暦をもとに農耕や伝統行事をいとなむ地域が多かったが、旧暦を自由に堂々とつかえるようになるのは戦後の1946(昭和21)年をまたなければならなかった。
在野の陰陽師
陰陽師には官人と地方の2種類があるという。
「陰陽師たちの日本史」は次のように説明する。安倍晴明らの官邸陰陽師とほぼ同時期に、在野の陰陽師「陰陽法師」が誕生した。呪詛にたずさわり、紫式部や清少納言らの高級貴族にはきらわれた。近世の「唱門師」も、占い・祈祷をして、家々に暦を配り、正月には万歳などをしたが、一般からは賎視された。
折口信夫は、前者を「宮廷の陰陽道」、後者を「僧侶の側の陰陽道」とよび、前者の官人たちは事務的で「学問」としての発展性がないのにたいし、後者の「僧侶の側の陰陽道」こそが民間信仰と融合して社会にひろまったと評した。
土御門家は江戸時代になると、後者の「陰陽師」たちを支配下におこうとする。「陰陽師」を名のって、占いや暦売り、祈祷、雑芸などをいとなむ者には、土御門家から「門人」としての「許状」を発行し、その対価として上納金をおさめるという制度が確立された。

地方の陰陽師にとって、「土御門家門人」というブランドは売り上げにつながる。土御門家にとっては、宮廷社会が衰退して経済的に逼迫するなか上納金が不可欠だった。
全国各地に晴明神社があるのは地方陰陽師の活動のなごりだという。
合併問題 きらわれた小浜市 説明してくれた女性は、旧名田庄村と合併後のおおい町でつとめた。その体験談もおもしろかった。 名田庄村は下中昭治村長による改革で、役場職員の昇進には試験を課すことににした。年齢・性別に関係なく、試験にとおれば昇進させた。女性職員ひとりでも一人で東京に出張させた。原発の隣接地だから財政状態がよく上下水道もほぼ完備していた。 一方、隣の小浜市は職員は多く、ダラダラ仕事をしている。財政状態が悪く、下水道の整備もおくれていた。本来は合併相手の第一候補なのにいやがられた。名田庄村は京都府美山町との越境合併をのぞんだがそれはみとめられない。単独でのこるという意見も大きかった。最後はおおい町からのよびかけで合併がきまった。 県の職員は自分でも理解していない国の制度を、市町村職員を県庁にあつめて説明しようとする。意味がない。国に直接きいたほうがよほど理解できる。「県職員にもすばらしい人はいるけど、はいるときはむずかしいが、ダメになる、といわれてました」
男女平等・実力主義だった名田庄村 説明してくれた女性の旧名田庄村時代の体験談もおもしろかった。
名田庄村は下中昭治村長による改革で、役場職員の昇進には試験を課すことににした。年齢・性別に関係なく、試験にとおれば昇進させた。女性職員ひとりで東京に出張させた。原発の隣接地だから財政状態がよく上下水道もほぼ完備していた。
一方、隣の小浜市は職員数が多くダラダラ仕事をしている。財政状態が悪く、下水道の整備もおくれていた。本来は合併相手の第一候補だが名田庄村はいやがった。名田庄村は京都府美山町との越境合併をのぞんだがそれはみとめられない。単独でのこるという意見も強かった。最後はおおい町のよびかけで合併がきまった。
県の職員は自分でも理解していない国の制度を、市町村職員を県庁にあつめて説明しようとする。意味がない。国に直接きいたほうがよほど理解できる。「県職員にもすばらしい人はいるけど、入社はむずかしいけどダメになる、といわれてました」