長岡京を廃絶させた親王の怨霊

京都市上京区の上御霊神社(御霊神社)は、まちなかなのに社叢はうっそうとして薄暗い。十三柱の祭神の中心は桓武天皇の弟で、冤罪で非業の死をとげた早良(さわら)親王(崇道天皇)だ。
桓武は奈良から長岡京に遷都するが、785年、新京造営の指揮者の藤原種継が殺される。犯人として大伴氏、佐伯氏を中心とする人々がとらえられ、首謀者は1カ月前に亡くなった大伴家持とされた。皇太子だった早良親王も連座したとしてとらえられる。桓武が、弟の早良ではなく自分の子の安殿(あて)親王を皇太子にするため、この機会を利用したとされている。
早良は乙訓寺で幽閉され、怒りのあまり十数日間食事をとらず、淡路へながされる途中、淀川の高瀬橋あたりで死んだ。それでもゆるされず淡路島に埋められた。早良の怨霊への恐怖と水害によって長岡京はわずか10年で放棄された。
新しい平安京は、怨霊対策で宮殿の南に神泉苑という池苑をおき、東西に東寺と西寺を建立、鬼門には延暦寺を配した。さらに早良親王の霊をしずめるため、天皇に即位したわけではないのに「崇道天皇」の名がおくられた。
当時は怨霊が政治や社会をダイナミックにうごかしていたのだ。そのメカニズムを知りたくて「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」(山田雄司)と「妖怪と怨霊が動かした日本の歴史 なぜ日本人は祟りを怖れるのか」(田中聡)の2冊をひもといた。
道真から将門へ
奈良時代までの皇統は、豪族たちの軍事力バランスのうえにあり、皇位争奪戦は大きな戦乱がともなった。だが平安時代になると、天皇と藤原北家のあいだに生まれた皇子のみが皇位を継承するようになり、争いは内輪もめになる。怨霊もミクロ化していく。

例外は菅原道真だ。学問によって異例の出世をとげ、娘を宇多天皇の女御にしたり皇子の斉世親王の室にしたりした。藤原氏は危機感をいだき、道真が醍醐天皇を廃そうとしたとでっちあげて太宰府に流し、道真は903年に没した。その後、道真を裏切った藤原菅根、ライバルの藤原時平、時平の妹が産んだ保明親王……が次々に死ぬ。清涼殿に雷が直撃して何人もの貴族が亡くなり、そのショックで醍醐天皇も46歳で死んだ。宮廷内の政争から生まれた道真の怨霊は、民間に信仰される御霊(疫神)としての威力も備える神となった。
さらに道真の怨霊にうごかされた平将門が939年に蜂起した。藤原秀郷らによって鎮圧され、将門の首は京にさらされた。

四条通の南に昔ながらの町屋がならぶ膏薬の辻子(こうやくのずし)は祇園祭の「郭巨山」の御神所になっている。その路地の一角に「京都神田明神」としるされた小さなお堂がある。将門の首がさらされた地に空也上人が堂をたてて供養したといわれている。「空也供養の道場」(クウヤクヨウ)がなまってコウヤクになったという。
東京の神田明神については、730年に出雲系の真神田臣(まかんだおみ)により創建され、将門塚周辺で天変地異が頻発したため1309年に三之宮として平将門もまつった……などなど起源には諸説あるが、将門の怨霊をまつったというのは共通している。平安京でさらされた将門の首は故郷の東国に飛んでいき、首が落ちた場所のひとつが皇居の目の前の「将門の首塚」(千代田区大手町)であり、これが神田明神の旧地とされる。神田明神の氏子は今でも、「将門調伏」をになった成田山新勝寺には参詣しないそうだ。
明治維新後、政府の意向で朝敵である将門を本殿の祭神からはずした。氏子が怒って騒動をおこした結果、別殿に将門をまつった。1984年には氏子の総意によって将門は本殿の祭神として復帰した。江戸っ子の反骨精神がたのもしい。

怨霊が跳梁する武士の世
将門と藤原純友の乱を鎮圧したのは貴族ではなく武士(もののふ)だった。武士が力をもって時代がうごきはじめると怨霊も巨大化する。
平安末期を代表する怨霊は崇徳院である。
保元の乱(1156年)に敗れて讃岐に流された崇徳院は、舌の先をかみ切って、流れでる血で「日本国の大悪魔になってやる」……と書き、髪や爪をのび放題にして生きながらに天狗の姿になった、と「保元物語」はしるす。
保元の乱後、源義朝は、崇徳側についた父の為義、弟の頼賢らの首を斬った。810年の「薬子の変」以来350年ぶりの死刑だった。保元の乱は、宮廷内の政争が武士の力ではじめて決せられた事件だった。
崇徳は、讃岐に流されて8年後の1164年8月26日に死ぬ。京からの使者が到着するまでの20日余り、遺体は「八十蘇場(八十場)の水」(坂出市西庄町)にしずめられた。使者が到着するまでまったく腐敗しなかった。崇徳は山上の白峯陵に葬られた。

八十蘇場(八十場)の水は、今もこんこんとやわらかな水がわいていて、「清水屋」というところてんの店が、お遍路さんをもてなしている。ただ、崇徳の遺体がしずんでいたと思うと、ちょっと不気味だ。
「平家物語」は崇徳の最期の地を、実際とは異なる志度(さぬき市)であるとする。志度の沖には竜宮があると信じられていた。危機の世に経典は海中の竜宮にゆだねられるという説が、崇徳院の怨念とむすびつけられ、崇徳の呪いは竜神の力とされた。

1176年、後白河院と藤原忠通の縁者で、院号をもつ者が4人つづけて亡くなった。翌年4月28日には大火で大内裏が焼けた。後白河は崇徳の祟りをおそれて、讃岐院とよばれていた院に崇徳院という院号をおくった。
「源平盛衰記」によれば、崇徳の霊が平清盛を出世させ、ヤマタノオロチを安徳天皇として誕生させた。壇ノ浦で安徳天皇は二位尼とともに海にしずむ。彼女は三種の神器のうち、神璽(勾玉)を脇にはさみ、宝剣(天叢雲剣)を腰に差していた。鏡は船にのこされ、勾玉は発見されたが剣は見つからなかった。こうしてヤマタノオロチは、出雲でスサノオにうばわれた剣をとりかえした。
天台座主の慈圓は「愚管抄」で、「武者の世」は怨霊にあやつられて実現した末法の世だとなげいた。宝剣の喪失とともに武力と怨霊が跋扈する時代がおとずれたのだった。

1221年の承久の乱で敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ流されて1239年に亡くなる。生前から怨念による祟りが噂されていたほどだから、死後には怨霊・天狗となって天下を乱れさせ、1242年には北条泰時が悶絶死した。
後鳥羽院の怨霊は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇を隠岐へむかえさせた。室町時代まで後鳥羽院の怨霊はおそれられ、その霊がまつられる水無瀨御影堂は、足利将軍から崇敬をうけた。
後醍醐天皇は死去に際し、自らの骨はたとえ吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の内裏を思いつづけると誓った。そのため、通常天皇陵は南面しているのに、如意輪寺内にある後醍醐の塔尾陵は北面している。後醍醐天皇の怨霊鎮魂のため、尊氏・直義により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が創建され、後醍醐の霊魂をまつる多宝院が建立された。
武家の権勢が天皇をしのいだとき、武家は天皇の怨霊をおそれなければならなくなったのだ。
激動の時代は狐が猛威
国家が神をなだめるシステムは戦国時代にはなくなる一方、秀吉、家康といった権力者を神としてまつりはじめる。戦乱では、神仏の力よりも兵力で勝敗が決するという合理的思考が優勢になるからだ。芸能や芸術も宗教と切りはなされて独自の発達をとげる。絵画の対象は、神仏とその周辺から人間や風景にうつる。ほぼ同時期の西欧のルネサンス(14〜16世紀)の変化と似ている。
一方、民間の御霊会は、だれかの死霊というより疫神を鎮撫する祭礼であり、雷神や狐が信仰の対象になった。
江戸時代、人にとりついた狐が奉行所でおおまじめに裁かれた。狐の言葉(証言)だけで捕縛・拷問されたり、不思議なふるまいをする者が天狗とかキリシタンと噂されて捕らえられたりする例もあった。
平和だった江戸時代、狐の力は、町奉行が命じて「狐が落ちる」ほどに弱まっていたが、幕末の混乱期になると、強力な狐があらわれる。
1858年、アメリカのミシシッピ号によって長崎にコレラがもたらされた。1822年につづいて2度目の流行だ。3年のあいだに江戸だけでも十数万の死者がでた。1862年には、残留していたコレラ菌による3回目の大流行があった。疫病流行のなか、人々は妖怪じみた獣の姿を見た。三峯山には御犬(御札)を借りようと参詣者が殺到した。コレラを狐のしわざとみなす噂は各地にひろまった。人々は、英米が妖怪的な獣をつかって日本を侵略しようとしていると想像した。
現代もつづく「狐もち」
将門は明治以降もおそれられた。
将門の首塚の場所には、明治になると大蔵省がおかれたが、御手洗池とよばれる蓮池と将門塚はのこされた。だが1923年の関東大震災で塚が破損し、発掘調査後、石室はこわされ、御手洗池も埋められて大蔵省の仮庁舎がたてられた。
すると、大蔵官僚で病気となるものが続出し、大臣はじめ2年間で14人が死んだ。工事関係者にも死傷者が多く、とくにアキレス腱が切れる者が多かった。将門が足の病のために敗れたという故事に関係するのではないかと噂された。塚の上の庁舎は撤去され1928年には将門鎮魂祭がもよおされた。
東京大空襲で焦土と化し、戦後はGHQのモータープール用地として接収された。整地しようとしたところ、ブルドーザーが地表に突出していた石にぶつかって横転し、運転手と作業員がブルドーザーの下敷きになって1人が即死した。ブルがぶつかった石は、将門塚の石標だった。町内会長がGHQ司令部に塚の由来を説明して陳情して塚はのこされた。

内山節によると、昭和40年ごろを境に野山で狐にだまされることがなくなる。
だが狐や死霊は今もときおりふきだしてくる。
島根県の山間にある雲南市や奥出雲町では「狐もち」の家を差別する風習があった。2010年に私が取材した井上静子さん(69)が結婚した家は「狐もち」とされていた。
「妹を嫁がせるときかならず調べられる。純粋な家系がにごると言われるけん、嫁にはやらん」
父はそう言って結婚に反対し、静子さんが結婚を強行すると勘当された。結婚相談所によると、平成になっても「狐もち」差別はのこり、結婚できず自殺する若者がいたという。

海外で日本人が犠牲に
海外の怨霊の犠牲になった日本人もいる。
中米グアテマラのトドスサントス・クチュマタン市で2000年4月、日本人旅行者が数百人という群衆におそわれて殺害された。
くわしくはこちらのレポート(https://note.com/fujiiman/n/nf32219384fde)をごらんいただきたいが、その時の様子を代理市長はこう説明した。
「事件の2週間ほど前から、悪魔教団がやってくるという噂があった。ラジオや新聞でもそんな話がでていた。日本人が偶然、子どもにさわったのがきっかけになった。私が駆けつけた時にはもうおさまっていた。混乱してたんだ。だれがどうしたのかはわからない。だれにもわからない……」

トドスサントスでは数日前にも警察官がリンチされる事件がおきていた。
この地域は1996年までつづいた内戦時代の暴力支配をになった元自警団が力をもちつづけている。代理市長はなにかを恐れて口ごもり、警官リンチ事件もかくしていた。国連グアテマラ和平検証団(MINUGUA)のスタッフは事件の背景をこう説明した。
「軍が暴力で支配し、虐殺の責任者が裁かれたことはなかった。和平合意後、文民警察がもうけられたが、犯人が捕まっても証拠不十分ですぐに釈放される。人々は法や司法制度を信じていない。さまざまな紛争を解決する回路がないから、何かきっかけがあれば爆発する。頭ではリンチはよくないとわかっていても、内戦時代にたたきこまれた身体的反応にスイッチがはいってしまう」
関東大震災で「朝鮮人が井戸に毒をいれた」というデマによって庶民がリンチ殺人に手を染めたのとそっくりだ。
暴力が日常の社会で、足元の暮らしが不安になると怨霊は頭をもたげる。
外国人への憎悪をかきたてる「日本人ファースト」というルサンチマンは現代の怨霊なのかもしれない。暴力を忌避してきた戦後80年の蓄積が、怨霊の爆発をおさえる力になると信じたい。