ぼくが田中正造を知ったのは小学6年の国語教科書だった。
教育出版と光村図書が1977年に彼の伝記を採用したからだ。
教科書の田中正造は、被害民のために奔走し、死を覚悟して天皇に直訴した「悲劇の義人」だった。
6カ所に墓がある「聖人」
正造が1913年9月4日に亡くなると、惣宗寺(栃木県佐野市)でひらかれた本葬には数万人が参列した。「一市民の葬儀としては、おそらく日本近代史上最大」と「通史・足尾鉱毒事件1877~1984」はしるしている。
正造の遺骨は、生家の小中村(佐野市)のほか、葬儀をした惣宗寺(同)、密葬をした雲龍寺(群馬県館林市)、最後にすんだ谷中村の田中霊祠(残留民が1917年に移住した際に移転=栃木市藤岡町)、埼玉県の北川辺(加須市)の5カ所に分骨された、……と長らく考えられていたが、1989年になって、栃木県足利市の渡良瀬川沿いの寿徳寺にも分骨していたことがわかり、93年に「頌徳碑」がたてられた。碑には「環境汚染公害対策国際運動之祖 渡良瀬川鉱毒災害民衆運動之父」ときざまれた。
佐野市の郷土博物館には正造の展示室がある。
正造は家屋敷のすべてを寄付し、死の1カ月前に庭田清四郎宅でたおれたときに持参していた合切袋がほとんど唯一の財産だった。袋には、大矢立1本、河川調査の原稿と新約聖書、鼻かみ数枚、川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊がはいっていた。だから正造の死後、妻のカツは親類や知人宅に身を寄せなければならなかった。
民衆のためにすべてをなげうった清貧の人。鉱毒に苦しんだ人々にとって、正造は聖人であり、その遺骨は信仰の対象になった。田中霊祠は1957年に宗教法人の神社として認可されている。
だが「聖人」あつかいは正造がきらうものだった。
亡くなる2カ月前、「頌徳碑をたてたい」との申し出に「記念碑だとか銅像とかいうものは大嫌いだ」とこばみ、「なに、死ねば川へ流すとも、馬に食わせるともかまわない。谷中の仮小屋で野垂れ死にすれば何より結構でガス」と正造はこたえていた。
群馬県館林市の「足尾鉱毒事件田中正造記念館」で「田中正造って地元では釈迦かイエスのような存在感なんですね」とぼくが感想をもらすと、
「聖人や義人あつかいをやめたほうがよい、という研究者もいるんですよ」
そう言ってスタッフの女性は歴史学者の小松裕氏(1954〜2015)の著書を紹介してくれた。彼の著作をもとに正造の人生をたどってみたい。
獄中で知る立憲政治と近代文明の価値
正造は1841年に小中村(佐野市)の名主に家にうまれた。伊藤博文らと同年代である。17歳で名主をつぎ、財政破綻の負担を領民に強いようとした領主権力と10年間たたかいつづける。三尺立方の獄にとららえられた際は、毒殺を予期して鰹節2本で30日たえた。
明治になって、陸中江刺県の役人だったころ、上役を斬殺した疑いでとらえられ、1871(明治4)年から3年間入獄した。
「問答無用」の世界で苛酷な拷問をうけ、同室の囚人が4人も凍死した。正造は亡くなった囚人の衣服をはらいさげてもらって生きぬいた。
だが監獄則(1872年11月27日制定)が適用されると待遇が一変する。「一夜の間に地獄のかはりて極楽」となった。冬は暖をとる火がはいり、夏には草花がいけられ、書籍の差し入れも自由になった。正造は獄中で「近代」のありがたさを実感し、「西国立志編」など西洋の思想をまなんだ。
正造にとって近代の立憲政治とは「切り捨て御免」「問答無用」を許さない、弱者が泣き寝入りする必要がない政治だった。だから、立憲政治の骨格である大日本帝国憲法を「(刀にたとえれば)村正の如く、正宗の如き善い憲法」と評した。
正造の生家には「明治13年」ときざまれた遺品の椅子がある。1880年は県会議員当選の年だ。そのころの正造は西洋文化を貪欲にとりいれていたのだ。逆に近所の「人丸神社」にお百度参りをして獄中の夫の無事を祈りつづけたカツ夫人が「お礼参りをしてください」とたのむと「そんな迷信は信じない」とこばんだという。
1874(明治7)年に出獄すると自由民権運動に邁進し、79年には「栃木新聞」を創刊する。栃木県会議員と議長をへて、1890(明治23)年の第1回総選挙で衆議院議員に当選する。1901年10月に辞職するまで計6回の選挙に勝利した。地元では「選挙の神様」あつかいされ、今でも選挙の年に「田中霊祠」にもうでる議員がいるという。
人民の抵抗権を主張し、帝国議会を去る
衆院議員として鉱毒反対の論陣をはってきたが、4回目の「押出し」が弾圧によって挫折すると鉱毒反対運動は急速におとろえる。
1901(明治34)年の第15回帝国議会で、田中は銅山の停止を要求したあと、こう演説する。
「是ダケ申上ゲテモ政府ガソレヲヤラナケレバ、政府ハ人民ニ軍サ(いくさ)ヲ起セト云フコトノ権利ヲ……軍サヲ起ス権利ヲ与ヘルノデアル」
被害農民の抵抗権を主張したのだ。そして10月に衆院議員を辞職した。直訴はその2カ月後である。
「天皇の慈悲にすがる義人」という虚像
直訴状の草稿は、名文家で知られた万朝報記者の幸徳伝次郎(秋水)が書いた。
直訴決行後、幸徳は通信社をつうじて各新聞社にながし、毎日新聞主筆の石川安次郎(半山)をたずねた。部屋には社会運動家で毎日新聞記者の木下尚江(1869〜1937)が同席していた。
「……実は君達に謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌だが、仕方なく書いてやった」
10年後の1911年に大逆事件で処刑される幸徳が「天皇の慈悲にすがる」文章をしるすのは不自然だが、正造の熱意に負けて「しかたなく」協力したという。
正造は取り調べに際し、ひたすら天皇にすがろうとしたと主張したから不敬罪は成立しなかった。「しかたなく」協力した幸徳も不問にふされた。
このときの幸徳の言葉を信じた木下が著書にしるすことで、正造は「天皇陛下の慈悲におすがりした義人」と戦後も信じられつづけた。
それをくつがえしたのが、1970年代の東海林吉郎らによる「石川半山日記」の研究だった。
石川の日記によると、正造と幸徳と石川は半年前の1901年6月から準備をはじめていた。
「天皇の慈悲にすがる」のが目的ではなく、天皇への直訴と田中の死いう衝撃によって報道機関を動員し、世論を沸騰させ、鉱毒反対闘争の活性化をはかるとともに、政府の譲歩をひきだすねらいだった。木下尚江は、石川と幸徳の芝居にまんまとだまされたのだ。
石川の日記は、直訴直後の田中と幸徳との集まりの様子を以下のようにつづっている。(注:口語に修正)
「やったやった!」
幸徳は快哉をさけぶように部屋にはいってくる。
「失敗したなぁ、ひと太刀うけるか殺されなければモノにならんよ」
石川が田中に言うと
「弱りました」
「やらないよりはよろしい」……
ぼくが教科書で接した正造は、自分の死を賭して「天皇にすがる」純粋無垢な義人だった。素直な小学生は、それに疑問すらおぼえなかった。実際は、徹底して情勢を分析して行動するしたたかな策士だったのだ。
つくられた「義人」像
「義人・田中正造」像は1925年に刊行された「義人全集」(全5巻、田中翁遺跡保存会編纂部)によって確立する。
小松によると、この全集はデモクラシーやマルクス主義などの「思想悪化」に危機感をいだいた人々が、「民心作興」「興風富国の教科書」にしようと企画した。だから、木下尚江らは「義人全集」に強い不快感をいだいていた。
全集で正造の思想は「皇室中心祖国民衆主義」であり、「大和民族固有の思想であって、皇室と共に発達し来た処の日本国民として奉ぜざる可からざる主義である」と規定された。「圧制下に苦しむ農民の代表として、権力に反抗した英雄」から「滅私奉公の臣民の鑑」へと歪曲され、「熱烈な天皇主義者田中正造」という像がつくりあげられた、と小松は指摘している。
エコロジーと生存権に独自に到達
「直訴」で世論は沸騰したが、それをきっかけに、渡良瀬川下流域の遊水地化計画が浮上した。その責任をとるかのように、正造は遊水地化反対運動にのめりこみ、日露戦争のさなかの1904年7月に谷中村に移住する。
遊水地計画による廃村から村をまもるため、渡良瀬川・利根川流域を徹底的にあるき、政府の治水対策の問題点をしらべた。
利根川から江戸川に分岐する関宿の江戸川流頭の川幅を、26~30間(1間=1.8メートル)から9間強にせばめたことや、利根川にながれこむ渡良瀬川の河口を拡幅し、洪水時に利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくしたことで、渡良瀬川と利根川の合流点付近の氾濫が激増したことを指摘した。
煙害による森の喪失も水害の原因とし、「川」だけでは水が一気にながれてしまうが、健全な「山」には保水力があることを、わかりやすい絵で説明した。かつての近代文明全面肯定から、近代の問題点を見ぬくエコロジー的な視点に達していた。
正造は、帝国憲法を死守し、憲法を武器にして弱者の権利をまもるたたかいをつづけた。権力によって生存権をおびやかされつつも、人権のためにたたかう谷中村残留民は、「人道の手本」「憲法の番人」であると位置づけた。
だが一方で、憲法の保護をうける権利すらうばわれている残留民の生活を保障するには、普遍的真理である「人権」に立脚した「広き憲法」が必要だと考えるようになっていた。
生存権をふくむ社会権を世界で最初に憲法にとりこんだのは1919年のワイマール憲法だが、憲法を武器とした谷中村でのたたかいのなかで、正造はワイマール憲法に先んじて「生存権」にたどりついていた。
御真影さえ交渉に利用する現実主義者
「義人全集」では、正造は「熱烈な天皇主義者」とされたが、実像はちがうらしい。
正造は、立憲政体の君主として、天皇は「憲法上の徳義を守るべき義務」があると考えた。美濃部達吉らの天皇機関説にちかかった。
寿徳寺(足利市)に正造の分骨をひそかにもちかえった久野村のリーダー、室田忠七の「鉱毒日誌」には次のような記述がある。
「御真影奉還之件ニ付、稲村忠蔵、室田忠七両人ニテ上京ノ途ニツケリ」
「田中代議士トモトモ文部大臣官宅ニ出頭、樺山大臣ニ面接シ御真影還納ノ儀ニ付陳情セリ。夫ヨリ内務省・文部省ニ出頭、前□ノ件ニツキ陳情セリ」
鉱毒による生活の疲弊のため御真影をまもりきれないから、中央官庁に返納したいと陳情するために上京した、という内容だ。正造の助言にもとづく行動だった。
その本意は、古河鉱業を擁護して被害を放置する政府への決別宣言だった。正造は鉱毒被害をうったえるため「御真影」さえも利用したのだ。
正造への同情ではなく、正造の問題への同情を
正造は、有力者や知識人に、谷中村の土地所有者となって買収に歯止めをかけるようよびかけた。戦後、全国各地の開発反対運動で採用された一坪地主運動のさきがけだった。
だが、天才的な発想力と行動力をあわせもつ正造が必死に努力しても、谷中村残留民は孤立をふかめていく。鉱毒事件でともにたたかった百姓たちは谷中村さえ水没すれば自分たちは安全だと考え、鉱毒反対闘争から離脱していった。
1913年8月2日、谷中村に帰る途中の吾妻村(佐野市)下羽田の庭田清四郎宅で正造はたおれ、1カ月後の9月4日に息をひきとる。その日、鉱毒地有志の総代として病床につめていた岩崎佐十や木下尚江らがみまもるなか、正造は最後のことばをのこした。
「同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情でハ無い。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ。問題への同情で来て居て下さるのハ島田宗三さん一人だ。谷中問題でも然うだ。問題の本当の所ハ谷中の人達にも解つて居ない」(「田中正造全集」別巻)
谷中村から背をむけたかつての同志のすむ地を「敵地」とまでつきはなした。
木下尚江の「田中正造翁」がつたえる「言葉」はさらにはげしい。
「お前方、大勢来て居るやうだが、嬉しくも何とも思はねえ。お前方は、田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造 の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。――行つて、皆んなに然う言へツ」
冒頭で紹介したように田中の葬儀には数万人がつどい、鉱毒被災地の6カ所に分骨され「聖人」としてまつられた。だが谷中村残留民は孤立したまま、正造の死の4年後の1917年には全員が移住をよぎなくされた。
「田中正造への同情」はあっても「正造の問題への同情」はなかったのだ。
開発からまもられた谷中村の遺跡
田中が最後までまもろうとした谷中村は今どうなっているのか?
正造が亡くなった吾妻村(佐野市)下羽田から渡良瀬川を15キロほどくだると、土手にかこまれた広大な渡良瀬遊水地がある。山手線の内側の半分ほどの3300ヘクタール(33平方キロ)で、本州最大の1500ヘクタールのヨシ原がひろがり、湿地保全の国際条約「ラムサール条約」に登録された。はるか東には筑波山の双耳峰がそびえる。
1922年完成の遊水地は、たびたびの大水で土砂が堆積して機能をはたせなくなり、1935(昭和10)年、38年、47年とたてつづけに大洪水が発生した。そのため1963年から遊水地の調節池化工事がはじまる。洪水時は低めの越流堤を水がこえて調節池内へながれて川の水量を減らす。洪水がおさまると排水門をあけて調節池の水を川にながすというシステムだ。
さらに、都市用水の確保のため、遊水地の一部をほりさげる貯水池(多目的ダム)建設がもちあがる。1976(昭和51)年に着工し、1990(平成2)年に完成した。
ハート型の貯水池の凹部には、こんもりした高台の上に、村役場や雷電神社、延命院、石仏や墓石が点在する共同墓地がある。母屋より高く土盛りした上に土蔵をたてた水塚(みつか)は洪水常襲地ならではの工夫だ。
貯水池を計画した旧建設省が1972年、これらの遺跡を破壊しようとした際、残留民の子孫は「谷中村の遺跡を守る会」を結成し、ブルドーザーの前にすわりこんだ。だから、池はハート型になったのだ。
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正造はいちはやく近代の価値に気づき、立憲制度をフルに活用してたたかいつづけた。さらに、近代の限界をのりこえる社会権やエコロジーにも独自にたどりついていた。「正造の問題(事業)」の価値は現代ならばかなりの人が理解できる。
一方、国語教科書の正造の記事は、光村図書は1989年、教育出版は2005年を最後に消えた。子どもが正造を知る機会はなくなり、「田中正造への同情」は忘れ去られようとしている。(おわり)