奈良県桜井市の三輪山(467メートル)のふもとにある大神(おおみわ)神社は「日本一古い神社」と称している。「神」を「みわ」とよむことからも、三輪山が最高位の聖地だったことがわかる。
飛鳥京や藤原京からみて、日がのぼる聖山が三輪山で、日がしずむ聖山が二上山(517メートル)だった。(二上山についてはこちらを参照)
神奈備の山が神体 本殿がない神社
奈良盆地の南東部にそびえる三輪山は、おだやかな円錐形の独立峰が存在感をはなっている。周辺の山々は花崗岩だが、三輪山だけが斑糲岩塊であるため、浸食からのこされて神奈備らしい円錐形を維持できているそうだ。
国道わきに1986年にたてられた高さ32.2メートルの鳥居は、熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の大斎原に33.9メートルの鳥居(2000年)がたつまでは日本一だった。
JR桜井線の踏切をわたると神社の森にはいり、つきあたりに江戸時代にたてられた社殿がある。この建物は「拝殿」だ。
その奥に、鳥居を横一列に三つくみあわせた「三ツ鳥居」があり、さらに奥は、神職さえほとんど足をふみいれない禁足地だ。三輪山じたいがご神体だから、本殿がないのだ。長野県の諏訪大社も幣拝殿と片拝殿はあるが本殿はなく、ご神体は山や杉の巨木だった。社殿のない神社は古い信仰のかたちをのこしているのだ。
境内にはいくつも摂社がある。北側に200メートルほど森をたどった狭井神社の拝殿の裏手には「薬井戸」がある。球形の石の蛇口をひねると万病に効くという「霊水」がほとばしる。
ご神体の山の空間はゆがむ?
狭井神社で登拝料300円とひきかえに「三輪山参拝証」としるされた白いたすきをわたされて首にかけ登山道に足を踏みいれる。ご神体の山だから水分補給以外の飲食や撮影は禁じられている。
途中の三光滝には、着替えの小屋があり、水垢離を体験できる。
山中はすずしいが、木々の発する湿気のせいか冷たい汗が腕や手のひらにふきだしてくる。ツクツクボウシとアブラゼミの声がワンワンとなりひびき、視界がゆがんで見える。
ふもとから少彦名(すくなびこな)をまつる辺津磐座、大己貴(おおなむち)の中津磐座をへて1時間ほどで頂上の社に到着する。50メートルほど先に「奥津磐座」があり、結界のむこうはゴロゴロと巨岩がころがっている。ここには大物主(おおものぬし)がまつられている。大己貴は大国主のことだ。一般には大物主も大国主と同一神とされている。だがここではそのふたつの神を別々の磐座にわけている。
気がつくとツクツクボウシの声がしずまり、空間のゆがみがピタリととまる。異次元のトンネルをぬけて神の世界にたどりついたようだ。熊野の大斎原では、巨木の杉がつくる幾何学模様の影が時空をゆがませていた。
古くからの聖地にはそんな舞台装置があることが多い。
邪馬台国は三輪山のふもとだった
山をくだって周囲を散策していたら、箸墓古墳(墳丘長約280メートル)にでくわした。その周囲に纏向(まきむく)遺跡がひろがる。
箸墓古墳は3世紀に築造された。248年に没した卑弥呼かその後継者の墓という説がある。邪馬台国の有力候補である纏向遺跡からは瀬戸内の西から関東地方までの土器が出土している。考古学者の多くは、この邪馬台国が大和王権の源流と考える。三輪山にすまう大物主は大和王権の神であり、出雲系の大国主(大己貴)の信仰はあとから畿内にはいってきたと彼らは考える。
一方、卑弥呼は出雲系の王権だと主張するのが村井康彦氏だ。日本書紀に「倭の女王」がでてくるのに「卑弥呼」の名がでてこないことから、邪馬台国と大和王権は連続していないとみる。
大神神社も葛城の高鴨神社も出雲系の祭神をまつっている。丹波や富山、吉備、伊勢にまで出雲系の信仰が広がっていた。出雲系連合国が畿内を支配し、その最有力のクニが邪馬台国だった。
だがこの連合王国は、九州から遠征してきた神武に屈服する。それが大国主による「国譲り」だ。
さらに、もとは大王とおなじ建物にすむとされた天照大神を別の場所にうつすため、豊鍬姫(とよすきいりひめのみこと)と倭姫(やまとひめ)が55年間巡行して伊勢の地をみつけたという伝説は、それぞれの土地の有力者を帰順させる経緯をえがいたのだと村井は推測する。
さいたまの氷川神社も古代出雲王国とつながり?
村井説によれば、出雲系の人々は現代人の想像以上に巨な連合王国をつくりあげていたことになる。だとすると、さいたま市の氷川神社が出雲系なのも合点がゆく。
こちらの記事で書いたように、大宮市史では、氷川神社のある場所は、見沼という広大な沼の水源で、神聖な泉を意味するヒカワが社名となったとしるすが、氷川神社の縁起書は、出雲国の簸川(斐伊川)の川上にある杵築大社(出雲大社)を勧請したことから、ヒイ川の名をとって氷川神社となったと説明している。
邪馬台国が出雲系の巨大連合王国だったとしたら、古代から出雲とつながりがあったという縁起書の記述もあながちフィクションではないのかもしれない。
そうめん発祥の地
三輪山のふもとは「そうめん発祥地」とされている。
伝説によると、1300年あまり前、大神神社の宮司の息子が、飢饉に苦しむ庶民の救済を三輪山に祈願したところ、小麦を石臼で粉にひき、三輪山の湧き水でのばして糸状にするよう啓示をうけたのがはじまりという。
実際は、小麦粉・米粉・塩をまぜた生地をのばした太い紐状の「索餅」という菓子を遣唐使が中国からもちかえり、鎌倉時代、米粉のかわりに油を塗布して細くのばす方式を留学僧がもたらした。江戸時代になって水車による製粉機が導入されることで、庶民も口にできるようになった。
その技術は、三輪から神戸の六甲山麓へ、六甲から、現在日本一のそうめん産地である播州につたわった。(六甲山麓の水車とそうめんについてはこちらで紹介しています)
酷暑のハイキングの最後は、「三輪山本」という店で「雲丹・帆立そうめん」(1265円)を味わった。量は少ないけど、そうめんの繊細なのどごしと、冷たいだしの味が夏にぴったりだった。