世界一の茶と不思議だらけの大井川㊤

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 駿河と遠江のふたつの国をわける大井川を新幹線でわたると、牧ノ原台地の広大な茶畑をのぞめる。そこから山にわけいる大井川流域は「日本一」の茶の産地である。そんなお茶の里を2017年と24年にたずねた。

目次

世界の茶葉を味わえる博物館

 大井川の河口や広大な茶畑をのぞむ高台にある「ふじのくに茶の都ミュージアム」はお茶について手軽にまなぶことができる。
 茶の原産地は中国雲南省周辺といわれ、広東語の「CHA」と福建語の「TAY」という方言からチャとティーという名が世界にひろまった。
 酸化発酵を加熱してすぐとめると「緑茶」になり、少しおいてから加熱すると「青茶」(ウーロンなど)、長時間酸化発酵させると「紅茶」、菌による発酵をくわえると「黒茶」(プーアル茶や碁石茶など)になる。そのほか「白茶」と「黄茶」をくわえて6つに分類される。博物館では世界中を手にとってにおいや味をためすことができる。
 日本に茶をもたらしたのは遣唐使とされ、当時は固形茶を粉にして煮出してのんだ。それが衰退したあと、鎌倉時代に栄西が宋の粉末茶をもってきた。それが茶の湯につながる。当時の庶民は茶葉を煮出して番茶にしていた。江戸時代、明の釜入り茶がはいり、急須でのむ煎茶が誕生した。
 1738年、宇治田原の永谷宗円が新しい煎茶製法を創出した。従来は茶葉を煮てから自然乾燥していたが、新芽のみを抹茶のように蒸したあと、焙炉でもみながら乾燥させる方法だ。
 明治維新で失職した旧幕臣や士族らが牧之原台地を開拓し、勝海舟が彼らを物心両面でささえた。だから島田市の逢来橋には彼のブロンズ像がたてられている。
 茶草場のススキなどを茶園にすきこむ「茶草場農法」は、ススキを刈りとった場所に日があたることで、貴重な動植物がそだつ。そのため世界農業遺産GIAHSに認定された。

収奪された川

長島ダム

 大井川はかつて「越すに越されぬ」とうたわれるほど水量が多い暴れ川だった。架橋は幕府に禁じられ、渡船も制限された。そのせいか左岸と右岸では言葉や習俗がいまも微妙に異なるらしい。
 今は白い川底をさらしている。流域にはダムなどの取水施設が29もあり、全水量の1割程度しか川をながれていないからだ。上流の田代ダムの水は東京電力によって東側の富士川水系にうばわれている。中部電力と東京電力によって徹底的に収奪された川なのだ。

大井川の水の多くは、川ではなくこうした水路を流れている


 大井川沿いの別荘地にすむOさんは20年程前、鮎釣りが好きでここに移住してきた。だが2002年に長島ダムが完成したのにくわえ、豪雨などで土砂が流れて川底の岩が埋まって苔がはえなくなり、鮎は姿を消し、鳥の数もすっかり減ってしまったという。

世界一の茶は冷製スープ

 JR東海道線の金谷駅から40キロほどさかのぼった川根本町の藤川地区はとくに雨が多く、しばしば濃い霧がたつ。それが高品質のお茶をはぐくんできた。
 4代つづく「相藤園」は、「農林水産大臣賞」や「世界名茶大賞」を受賞してきた。
 茶畑の端には大井川をのぞむテラスがつくられ、改造した古民家で自慢の高級茶をふるまってくれる。
 「世界一」の茶は普通の茶となにがちがうのだろう?
 品評会にだす茶はいわば芸術品だ。
 収穫は、樹齢3~5年の若木の芽の一芯二葉を指の腹でつみとる。一芯二葉で0.2g。これを80キロ収穫するには40~50人が必要だ。煎茶は収穫の適期が3日ほどしかない。昔は5月の連休前後は晴天がつづいたが、最近はよく雨がふる。天気をみきわめ、摘む人を手配し、6つの畑のどこから収穫をはじめるか工夫する。
「複雑な方程式を解くようなものです」と相藤令治さん(1949年生まれ)は言う。
 できあがった茶は黒々とした艶があり、針のように細い。手もみではここまで細くならないから機械をつかっている。

 高級茶用の底の浅い絞り出し急須に3グラムの葉をいれ、40~50度の湯30㏄をまわしいれ、1分おいて最後の1滴まで茶碗にそそぐ。それを口にすると、おどろきの声があがった。
「わーっ、だしみたい!」
「スープみたい!」

 低温の湯だから渋みや苦みはでず、テアニンやグルタミン酸などのうま味成分だけが抽出される。次に、細いシャンパングラスに茶葉と氷水をいれて10分後に口にいれると、お茶というより冷製スープだった。
 2煎めは60~70度の湯で5秒ほど。うまみのなかにちょっと渋みがでてくる。3煎め4煎めは80度の熱湯で抽出するから渋みが強まる。
「お菓子といっしょにのんでください。渋みと甘みがよくあいますよ」
 地元の大福や和三盆といっしょにあじわった。
 最後は紅茶。渋みと香りが高いベニフウキなどの品種でつくっている。それに熱湯をそそぐと、はなやかな香りがたつ。紅茶はうまみではなく香りを楽しむものなのだ。
「お茶の味は、茶葉と温度と湯量でかわります。お茶の飲み方のコツは、お茶をやさしーくあつかうことです」
 1時間以上かけてお茶のすみずみまで堪能できる「茶のフルコース」だった。

虫喰いで紅茶は美味に

 川根本町青部の益井園の益井悦郎さんは「和紅茶」の名人だ。彼の紅茶は2017年にのませてもらった。
 アフリカでの青年海外協力隊活動をへて、1984年から茶の無農薬栽培をはじめ、同時に紅茶づくりもはじめた。
 日本茶の主力品種である「やぶきた」では紅茶にするには渋みがたりない。そこで、「香駿」などの品種をつかってウーロン茶や紅茶をつくってきた。
 さらに、害虫のウンカにくわれた芽だけを手摘みした高級茶「東方美人」を参考にして、ウンカにくわれた芽の茶をつくっている。ウンカに刺されると、甘酸っぱくなるという。
「虫にくわれたりして一定のストレスがあるほうがおいしくなるらぁ」
 相藤園とはまったく異なるアプローチがおもしろい。
 タラの延縄漁で、タラにかじられた餌のイカを人間が食べる能登の珍味「いさぶ」を思いだした。

道の駅にあったボトル1本17280円のお茶

銀座通りの百貨店

 川根の茶づくりは昭和30年代にピークをむかえる。藤川地区にある相藤さんらの茶農家は、車中泊をしながら関東で売り歩いた。夜間に茶をつめる作業をしたから「夜も明るいのが藤川だ」といわれた。船で茶を運搬してかせいだ人は、大相撲の大鵬や柏戸もよんできた。天然木のヒノキで億単位を投じてたてた「お茶御殿」もある。寺院建築のような豪壮なつくりだが、豪華すぎて暮らしにくくふだんはつかっていないそうだ。

こんなマッチも売っている

 藤川の中心はかつて10軒の商店がならび「銀座通り」とよばれた。「高田屋」は食料品はもちろん洋服から農機具までそろえる「田舎の百貨店」だ。戦前に上流の千頭にあった建物を解体して川ではこんで移築した。地元の銘酒「おんな泣かせ」があるのもうれしい。就職して静岡支局に配属された年、女に泣かされてばかりではなく、女を泣かせるくらいになりたいなぁ、と思いながら飲んだのを思いだす。
「うちはなんでもおいてるけど、お風呂の焚き口から灰をかきだす道具や魚を焼く網なんかは売らなくなっただよー」

 山の暮らしも、時代とともに変化しているのだ。
 川根周辺は、茶と林業で繁栄したため、千葉山智満寺(川根本町上長尾)は七堂伽藍をそなえ、本堂を花鳥の絵天井がいろどり、多くの絵画がかざられている。檀家1200軒をかぞえる。観天寺(元藤川)も約600軒の檀家をかかえているという。

大原生林はカネのなる山

 藤川の高田屋の前を大井川におりていく道は「木馬道」だった。丸太を線路の枕木のようにならべ、ソリのような「木馬」の上に5~10石(1.5~3立方メートル)の丸太を積んでひいた。そうやって高田屋の材料も川から水揚げされた。
 大井川上流の南アルプスには広大な原生林がひろがる。国有林には巨木が林立していた。
 「資料館やまびこ」は、長島ダムの建設でしずんだ43戸のムラの暮らしを再現している。鈴木正文さんに案内してもらった。
 大井川上流や安倍川上流にはかつて8つの金鉱山があり「安倍金山」とよばれた。1日30両を産出し、慶長小判などがつくられた。井川は金のムラで年貢を金でおさめた一時期もあったという。
 金鉱脈にふくまれる金鉱石を採掘し粉砕して粉末状に砕いてから金を取り出す。金をふくむ鉱石が沢を流れくだることで、石と金が分離して砂金となる。だから川根近辺では昭和のはじめまで砂金をひろうことができた。80歳ぐらいの人が子どものころは、大雨がふると流れてきた砂金をひろって大きさ比べをしたという。

 大井川上流の山中には、あちこちに山小屋がたてられ、4月から9月まで6カ月間、10~13人が1人1畳の空間で寝泊まりして林業に従事していた。飯をたく「かしきさん」もともに、現場を転々と移動していた。庶民は雑穀を食べていた時代でも、山小屋の主食は、古米とはいえ白米だった。メンパにギューギューに飯をつめ1日4回にわけて食べた。
 職人は何年も修行して木の切り方や鋸の目立てをぼえる。それは企業秘密だから自分の鋸を他人に見られるのをきらったという。

「越中さん」とよばれる富山からきた職人たちが、10月から3月にかけて川で木を流した。夏や秋は台風や豪雨で海まで流れてしまうからだ。鉄砲堰をつくって水をためて一気に放流した。素足と草鞋での作業だから、足下はバリバリに凍る。危険な仕事だから鳶口に戒名を書いていた人もいた。OBたちが川沿いで火をたいてあたたまらせた。
 大井川源流部の原生林は、カネのなる森だった。江戸期にはこの地域の木材を紀伊国屋文左衛門が江戸に販売した。
 大成建設やサッポロビール、日清オイリオ、帝国ホテルなどを創業した大倉喜八郎(1837~1928年)は「井川山林」(東西13キロ、南北32キロ)を買収し、木材と水力発電のエネルギーによって製紙業(現在の新東海製紙)をおこした。
1 926年8月には数え年90歳で「目の黒いうちに赤石岳を見ておきたい」と思いたち、3121メートルに登頂した。駕籠にのり、200人をしたがえ、風呂桶やシャンパンも持参する「大名登山」だった。(つづく

(オコゼを山の神に奉納したという話はあちこちできくが、なぜ山奥でオコゼなのか不思議だ。全国100カ所以上あるという。山の神は自分の醜さをいやがるものだから、それ以上に醜いおこぜを供えたということだけど……)

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