
苦しみを楽しむ
輪島市町野町は元日の地震につづいて豪雨でも壊滅的な被害をうけた。くずれた土砂や倒木があちこちに山積みになっている。田畑は巨大な湖になり、町野の中心集落はほぼ全域が水没した。
藤平朝雄さんがすむ曽々木海岸も、裏山の土砂がくずれて民家1軒をおしつぶした。電気も水道も電話もとまった。海岸には無数の流木が散乱していた。
「地震だけなら前を向けるかなぁと思ってきたけど、正月のふりだしにもどってしまった。56年すんでいるけど、こんな地震や豪雨ははじめて。今年はなぜ次々にひどいことがおきるんでしょうねぇ……」
藤平さんも疲労のためか顔が青ざめている。
4キロ南にある町野町で唯一のスーパー「もとや」は元日の地震後も営業してきたが、濁流におそわれた。それでも泥を掃除して復活をめざしている。
「2回も被害にあってもたちあがるんだから、無事だった私も、なんの力もない年寄りだけど、なにかせんならんと思いました」
藤平さんは、能登の魅力を紹介するDVDや手作り冊子を友人たちに発信する準備をはじめた。
そんなとき藤平さんのもとに、輪島市街の寺の住職から寺報がとどいた。
「どうして2度も大震災にあわなければならないのだろうと思いました。でも今はこう受け止めています……数千年に一度のありがたいご縁に出あわせていただきました」
感動した藤平さんは返信した。
「どんなつらいことがあっても、きのうまでのことは明日への準備と思って進んでいきたい」
そして私にこう言った。
「おなじ苦しいなら楽しんでやろうって思ってるんですよ」
ナチスの強制収容所を生きぬいた精神科医ビクトル・フランクルを思いだした。
過酷な収容所でも、最後のパンを他人にあたえる人がいたことから、悲惨な運命に見舞われても、その運命にたいしてどんな態度をとるかという人間の最後の自由をうばうことはできないとフランクルは確信し、「今・ここ」で最善をつくすことを説いた。
二重災害という絶望的な状況で「苦しみを楽しむ」能登のやさしさと私にはだぶってみえた。
自然も人もねばりの回復力
2025年3月、「能登学プロジェクト」のメンバーたちと曽々木を訪れ、曽々木海岸を案内してもらった。
曽々木海岸は海が荒れるとポケットパークにまで波がふりそそいだが、地震で2メートル海底が隆起して白い岩礁があらわになっている。
藤平さんが病院に3週間入院して帰宅したとき、食卓にはサザエの刺身が山盛りだった。隆起した岩礁で孫がひろってきたのだ。その後、貝はとれなくなった。でも藤平さんは楽観的だ。
1997年1月のナホトカ号重油流出事故を経験していたからだ。
あのとき、輪島の海岸でも重油が平均30〜40センチもべったりたまっていた。スコップでとりのぞいた重油は、輪島だけでもドラム缶2〜3万本におよんだ。専門家は「水産資源は将来も壊滅的だ」と言った。だが翌年には草や海藻が生え、魚ももどってきた。
「自然の復元力はすごいですねぇ。震災で海底が隆起して一時は魚が消えたけど、もうだいぶもどってきてますよ」
回復力が強いのは自然だけではない。
「このあいだ自分の家が母屋も蔵もすべてつぶれて仮設にはいってる88歳の人とお風呂で会ったら、『おらっちゃ全部つぶれたけど、なんとかなるやろ』ってあっけらかんと笑っていてねぇ。能登の人は陽気で明るい人が多いですねぇ」