東日本大震災による福島第一原発事故で全住民の避難を余儀なくされた福島県大熊町は、2011年の人口1万1500人が25年は1005人。震災前からの町民は318人だけだ。一方、能登半島地震の震源地・珠洲市は、携帯電話の位置情報をもとに分析した結果、1万1000人から7900人に減った(37%減)と推計されている。大熊町の町議・木幡ますみさんが2025年5月、珠洲をおとずれ、珠洲原発計画への反対運動のリーダーだった北野進さん(元石川県議)と原発や過疎の問題について話しあった。
軍艦島で深呼吸
5月8日、山が崩壊し、ズタズタになった道路を走って珠洲市宝立町にたどりついた。大半の家が倒壊し、震災直後はがれきが折り重なっていた商店街は更地になっている。木幡さんはため息をつきながらつぶやいた。
「想像以上だ。自分の目で現場を見ないとわかんねーな」
「軍艦島」の異名をもつ見附島は地震でくずれてふつうの岩山になった。富山湾の対岸に真っ白な立山連峰をのぞみながら木幡さんは大きく息を吸った。
「きれいなところだなあ。地震や豪雨は大変だけど、思い切り深呼吸できるのはいいよねぇ。これが原発のないところなんだよなぁ」

原発問題は「なかったこと」に
翌朝、北野さん宅を訪問した。55坪ほどの自宅は地震で「半壊」になった。居間の天井はべろりとめくれている。建築業者が不足して工事の順番がまわってこないのだ。
北野さんはまず珠洲原発計画展開後の経緯を説明した。
北野
珠洲原発計画は2003年12月5日に電力3社が撤退表明するまで30数年つづきました。推進派と反対派の対立が孫子の代までのこるだろうと心配したけど、対立は思いのほか早く解消します。
「撤退確実」という情報が2003年9月にはいってきた際、「勝った勝った、と言わんようにしよう」と、みんなに徹底しました。
でも実は「勝った勝った」どころか推進派も反対派も原発にふれなくなります。腹のなかではあいつは許せん、と思っても、対立は見えなくなり、だれが賛成でだれが反対だったか移住者から見るとぜんぜんわからないという状況になりました。要するに「なかったこと」になってしまった。
ただ、そうは言っても過疎は止まらない。推進派の、とくに商売をやっている人のなかには「原発があればさびれることもなかったのに」という未練がありました。

そんな未練を断ち切ったのが、2011年3月の福島第1原発事故でした。推進した人たちが「珠洲に原発がなくてよかった」と、ぼくに声をかけてくるようになりました。
福島の事故は、原発に反対していたぼくら以上に、「事故は絶対ない」と信じて人生をかけてたたかってきた推進派の人にとってショックでした。
2020年からの群発地震から、「原発があったら揺れるたびに心配せんならんかった」と、原発問題にからめて地震をかたることが増えてきました。
ただ、珠洲で原発を止めたのだからほかの原発もとめよう、とはならず、ほとんどの人は原発問題にタッチしなくなりました。
家庭内でも推進・反対にわかれて、職場でも地域でも割れていました。私たちはかたい結束で「ここで気を許したら負ける」という緊張感のなかでがんばっていました。そういう暮らしにみんな疲れきってしまい、電力撤退後に原発にふれるのはカサブタをはがすみたいな感覚だったんです。
あいつぐ自死

泥棒やイノシシ、クマなどに荒らされた(2024年)
木幡
大熊町では、土地や家があっても田んぼも畑も山もできないため、精神的にまいって自死した人が何人もいました。
もとの住民の多くは原発をおそれて帰ってきません。帰ってくるのは「故郷に帰れば昔の生活がもどるんじゃないか」って思う高齢者ばかりです。
廃炉作業の仕事が多いけど、そこで働いていた人たちが次々に亡くなっている。苛酷だったんだろうね、「もう二度と原発の作業にはもどりたくない」という人がでてきています。
大熊町では私以外は「原発反対」とは言わないけど、もともとの地元の人は、推進だった人も「世の中はおかしい」と思っています。
ある推進派の男性が「田んぼや畑、つくれねぇんだよな」と言うから「そうだね、しばらくはつくれないよ」と私がこたえた翌日に首を吊ってしまいました。
肺がんで闘病生活をおくっていた女性は、「福島原発告訴団」の集会にきて、「ますみちゃん、ごめんなー、ごめんなー」って私に言うんです。
「なにもごめんじゃないよ」
「もう私さ、先にいくから」
「え、先にいかないでよ!」
次の日に自死してしまいました。
地元から人が消える
北野
地震をきっかけに、農業や漁業や商売をやめて金沢にでていった人がいっぱいいます。若い子育て世代も流出しました。うちの孫は去年、野々市の小学校の2年生だったけど、同じクラスに珠洲から2人転校してきました。車を運転できなくなったら病院も買い物も大変だからと、お年寄りも珠洲からでています。
珠洲に住民票を残して「みなし仮設」というかたちでアパートをかりている人も多いけど、2年の期限がすぎたら、むこうに拠点をうつす人もけっこういると思います。
うちの集落は地震前は50世帯ほどだったけど、残るのは30世帯くらいかな。

蛸島とか正院とか鵜飼などは、ずーっと家並みがつづいていたのがすべて更地になりました。震災前の半分以下になる地区もあると思います。町を歩いても、であうのは解体業者ばかりです。
災害復興住宅が集落のちかくにできて、自分の土地や田畑にかよえるようになれば、もしかしたら家を建てようって話になるかもしれない。できるだけそれぞれの家のちかくにすめるようなってほしいですね。
珠洲の市長は、賛否両論あるけれど、できるだけ地域に学校をのこそうとしてきました。
市内10地区が町づくりの計画をつくり、それをまとめて復興ビジョンをつくろうとしています。配慮をかんじるけど、それが今度の地震でどこまでふんばれるのか……
医療も福祉もコンビニも人手不足
--福祉や医療はどんな問題がありますか?
北野
震災の前から人手不足だったのに、地震後、病院でも保育所でもかなりの人が退職しました。とくに看護師さんは金沢でも職を得られるからだいぶやめてしまいました。
高齢者はだいぶ市外に避難しているけど、彼らが帰ってきたときに対応できる福祉や医療があるかといったら、かなりきびしい。
ぼくのかかりつけの医院は地震前、先生と薬剤師の奧さん以外に7人か8人のスタッフがいたけど、今は先生と奧さんと、もう1人だけで、ぎりぎりでまわしています。
木幡
大熊町は介護の人がおらず隣町から派遣してもらっています。うちは避難先の南相馬市で精神疾患の夫を介護していますが、介護の現場は少ない人数で必死でまわしています。南相馬には昔は大きな老人ホームがあったけど、津波でなくなってしまいました。
北野
珠洲にはコンビニが3軒あるけど地震後24時間ではなくなりました。1軒は閉じたまま、ほかの2軒も午後6時か7時にはしまってしまう。人手不足が原因です。
木幡
大熊町では最初は歩いて2時間かけて隣の富岡町まで買い物にいきました。大熊町まできてくれるタクシーがなかったんです。2015年までは宅急便もこなかった。2015年にはじめてコンビニができるまでは、原発の労働者はカップラーメンばかり食べていました。2017年あたりからようやくうごきはじめました。
中国やフィリピンの人が多くて、最近はペルー人が来ています。原発でもコンビニでもペルー人が働いていて、駅前の食堂もペルー人、「おおきに」という京都からのラーメン屋もペルー人です。

復興景気の裏に喪失感
木幡
大熊町の隣の浪江町で深夜、おじいさんが犬の散歩していたから、「散歩ですか?」って車の窓をあけて声をかけたら、請戸漁港で原発に反対していた人でした。
「おれは原発反対だったんだけど、もう、みんないなくなっちまった。だれも帰ってこねーんだ」「賠償で金はもらえて、新しい船は買えるかもしれねぇけど、漁師はもうやれねぇしなぁ……」って言ってました。
福島は復興復興でわいていて、原発事故によって借金を返せた人とか、復興予算で財政赤字を解消した町もあるけど、実際は人々は「和気あいあい」なんかできていないんです。
移住者は希望?
北野
2011年の福島第一原発の事故後、農村回帰の流れのなかで移住者がだいぶ増えました。
今回の地震で、「それでもがんばっていく」という移住者がいるのはありがたいけど、でていく人のほうがはるかに多い。きびしい状況なのはまちがいありません。
木幡
大熊町は、復興予算でむやみやたらと建物をたてて、移住者がきています。「学び舎ゆめの森」(小中学校3校が統合した義務教育学校。認定こども園も併設)の児童生徒の6割は移住者の子で、移住者むけの補助金や支援がなくなって彼らがいなくなれば学校の存続もむずかしくなるかもしれません。
記憶の継承が課題
木幡
移住者の人がタケノコを掘っているから、「(放射性物質で)危ないからこんなの食べちゃだめだ」と役場の人が注意すると、「昔の話でしょ」「1回ぐらい食べたから死ぬわけじゃない」と若い移住者は食べてしまう。町内の各地にある線量計を指さして「温度計ですか?」ってたずねる若者もいます。あの事故は忘れられかけています。
北野
原発問題を語らなくなって終わりという形でよかったのかなぁと、ずっとひきずっているんです。あの30年間はなんだったのか、行政レベルでも市民レベルでも総括できていない。
推進した人のなかには、電力にたかって毎晩酒飲めればいいという人もいたけど、珠洲の将来を真剣に考えていた人もいました。とくに女の人は、なんとか自分の子や孫が帰ってこれる地域にしたいと考える人も多かったんです。
前知事の谷本正憲さんは県議会で「珠洲では対立しているけど、なんとか珠洲をよくしようって思いは一致してるんだ」って答弁した。そういう部分を大事にして総括する必要があると思うのだけど、残念ながらできていません。
能登半島地震の1カ月前の2023年12月5日は電力撤退から20年でしたが、20年の節目の行事も、マスコミの特集もありませんでした。このまま忘れられていくんだなぁと思っていました。
原発がないから深呼吸ができる
--お互いの話をきいてどう思いましたか
北野
放射能と地震の被害が重なったらどれほど大変か……。珠洲は原発がなくてよかったとあらためて思いました。ききかじってわかったつもりになるのが一番やばい。志賀には原発があるので、もういちど福島のことを学ばせてもらいたい。
木幡
私からみれば、珠洲はすごいなー、うちらもこんなふうに反対していれば、たとえ地震があっても大熊に帰ってこれたかなぁって思っていました。
いつまで議員をやるかわからないけど、北野さんみたいに地に足をつけて、一人一人の話を聞いていこうと思います。
きのう、見附島をながめて思い切り深呼吸できて、これが原発がないところなんだよなぁって思いました。大熊では深呼吸しようとは思えません。次は福島の人を何人かつれてきたいなって思いました。
