仮設住宅は「健康で文化的」? 公費解体で生業の危機も2505

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旧輪島駅裏

 2024年元日の能登半島地震では被災者は体育館などでの雑魚寝や、遠隔地への2次避難をしいられた。仮設住宅6882戸は11カ月以上の時間をかけて12月に完成した。だが被災者に切望した仮設住宅は、とりわけ輪島市でその狭さが問題になっている。

 仮設住宅は、一般に1K(四畳半と台所=20平方メートル)は単身者用とされてきた(石川県の規定では「1〜2人用」)。能登半島地震被災地でも多くの自治体が「1人用」とするが、輪島市は土地がたりないことを理由に、「入居者2人まで」は1Kとなった。
 住み心地はどうなのだろう。
 輪島市の漁師町の輪島崎町は230軒中約100軒は公費解体される。外観は無事でも隆起によってかたむいた家が多いのだ。
 避難生活をへて5月までに大半の住民が仮設住宅に入居した。新木順子さん(76)と息子がはいった仮設住宅は「1K」タイプ。四畳半と台所だけ。ひと昔前の大学生の下宿だ。家財道具を搬入したらふとん2枚は敷けない。いっしょにすむのはあきらめ、息子は金沢にアパートをかりて、輪島で泊まるときは、水もないかたむいた自宅で寝ている。
「家を解体したらどうするかなやんでます。成人2人でせまい仮設におるとすごいストレスがたまる。過呼吸で救急車ではこばれる人が次々にでています」
 地震前、漁師町では住民が町を散歩し、「あがっていきまっし」とさそいあってお茶をのんでいた。仮設住宅では客をむかえるスペースがない。とくに冬は部屋にひきこもってしまう。近くにすんでいるのに顔をあわせることがめっきり減ったという。

輪島市門前町道下

 輪島市街から約10キロはなれた大沢地区は、地震で孤立して住民がヘリコプターで脱出した。9月には豪雨におそわれ、2025年5月現在、電気も水も復旧しないままだ。
 80歳の男性が妻と息子と3人で入居した輪島市街の仮設住宅は四畳半2間とキッチンだけ。
「おれは夜は1時間晩酌するやろ。息子は『おやじは毎日酒のんでー』ってムスーっとしてね。オレがパンツ1枚で寝てたら機嫌わるーなるしね。すぐけんかになる」
 夫婦は週3日、電気も水道もない大沢の自宅で泊まっている。
 大沢では地震から半年後の6月に水や電気が復旧したが、豪雨でふたたびとだえた。電気は2025年6月ごろ復旧のみこみだが、桶滝川上流を水源にしていた簡易水道の復旧は「2年かかる」ともいわれている。
「うちもかたむいていて半壊や。でも解体したらすむところがねぇがいね。自分で家を補強して、水道が復旧したらここで死ぬまで暮らします」
 大沢は豪雨で多くの家が被害をうけた。国民年金(最高でも月額6万8000円)しかない高齢者は家の再建はむずかしい。災害公営住宅ができるまでは、学生アパートよりせまい仮設住宅にすみつづけるしかない。
 そもそも大沢に災害公営住宅が建設されるのかどうか−−。輪島市災害公営住宅整備方針では「防災⾏政サービスの拠点となる地区では、合意形成の状況等を踏まえ整備を検討」とされているが、「住⺠間で、⼀定のまとまった世帯数での移転が合意され、地区拠点に近接した位置に地域で⽤地を確保できる場合」という条件がつけられている。拠点である公民館が豪雨で被災した大沢にはきびしいハードルだ。
 東日本大震災の仮設住宅では、父親と成人の娘が小さな空間にすむことになり、父親が娘を性的に虐待する例も報告されていた。
 国の「健康で文化的な住生活を営む基礎として必要不可欠な住宅の面積に関する水準」(最低居住面積水準)では、単身者は25平方メートル、2人以上の世帯は10平方メートル×人数+10平方メートル(2人世帯ならば30平方メートル)だが、仮設住宅はそれを大幅に下回っている。これが憲法25条のさだめる「健康で文化的な最低限度の生活」といえるのだろうか。

生業が消える

 公費解体の期限内ならば店舗や事業所を無料で解体できるから、迷った末に「解体」をえらんで廃業する商店や事業所も多い。
 先述の新木順子さんは女性3人で海産物を加工する「輪島海美味工房」をいとなんできた。工房の建物は半壊だから公費解体をかんがえていたが、移転先がないまま解体したら加工場も商品保管場所もなくなってしまう。
 知り合いの自動車修理工場は半壊だったが「お世話になった人への恩返し」のつもりで地震後もこわれかけた工場で継続してきた。こうした業者が公費解体の締め切りを前に継続か廃業かなやんでいる。
「自動車修理工場があきらめて廃業したら、まだ道路の状態が悪くて次々パンクするのに、その修理もできなくなってしまう。『解体』ばかりせかすのではなく、経済をまわしている生業をかんがえないと、店も事業所もなくなってしまいますよ」
 新木さんは危惧する。

 地震後、私が行き着けだった店がいくつも廃業した。

2024年3月の助寿司

 行きつけだった「助寿司」は、地震直後は建物が残っていたが2025年5月には更地になった。店をつぐはずだった息子さんが地震前に亡くなり、地震を機に廃業してしまったという。

2025年5月、一面の更地に

 ちょっと先の「狸」も行きつけの居酒屋だったが、その場所すらも今やわからない。

2024年5月

 「やぶ新橋」は輪島のファミレスのような存在だった。地震後も4月には再開し、がれきだらけの街に元気をあたえていたが、9月の豪雨で大人の背丈ほど浸水した。
 その後、再開を準備していたが、店を切り盛りしていた店主のお母さんが突然亡くなってしまった……と聞いた。

豪雨で閉じてしまった「やぶ新橋」
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