私は新聞記者として奥能登の4市町を担当していたが、穴水町は話題の少ない、おだやかな町だった。
能登は全体に保守的で、役所がいばっていて、議会はなぁなぁなのだが、珠洲市には原発問題、輪島市では震災がれき問題があったから「野党」が存在した。能登町はそうした問題はないが、発言力のある議員はいた。穴水はめだった失政や懸案がないから、議会を取材することもなかった。
まったく一般質問にたたない長老議員、団体の「長」ばかりをあつめた「○○委員会」、非公開が「慣例」の議会の委員会……。どれも「あたりまえ」のよくある風景だ。五百旗頭監督は「話題がない」「めだたない」「つまらない」ことじたいに疑問をかんじ、「あたりまえ」であることじたいのおかしさを浮き彫りにしていく。
主人公は手書きの新聞を2020年から発行している滝井さんという元教師だ。北国新聞と北陸中日新聞という地元紙すら報じない「退屈な町政」の話を手書きでつづる。
地味なとりくみなのだけど、実はだれも報じない町の情報にはかくれた需要があった。部数も寄付金も年々増えていった。
町にはタブーがあった。町長が推進する「多世代交流センター」建設事業の運営団体の理事長を町長がつとめていた。しかも建設予定地は前町長の土地だった。スキャンダルのはずなのに、議会はいつもどおり、再質問もないまま予算を全会一致で通してしまう。
そのおかしさを滝井さんや、五百旗頭さんらのテレビクルーが報じることで、町議が有権者の声をきき、議会の傍聴席がうまるなど、すこしずつ変化が生じる。
2024年元日、能登半島地震がおそう。
仮設住宅の環境はきびしい。道路の復旧も遅遅としてすすまない。「役所はなにを言ってきいてくれん」というあきらめが町民に広がる。仮設住宅をまわりはじめた議員が町民の思いを議会で質問し、役場の課長から「(なかなか対応できない面もあるけど)あきらめずに役場に言ってください」という答弁をひきだす。
7月からは若者をふくめた町民有志があつまる「復興未来づくり会議」を開催し、町長も積極的に参加する。さびついていた民主主義の歯車が、ジリッジリッとまわりはじめる様子がつたわってくる。
新聞がなくなったアメリカの州では自治体権力の腐敗が問題になっている。日本でも全国紙が衰退し、保守的な地元メディアと地方権力がむすびつく自治体がふえている。
そんな情報砂漠化した町でも、たったひとりの瓦版が民主主義を再生させうることをしめした。
将来への希望をかんじさせて幕を閉じるかと思ったら、最後にどんでん返しがあった。これがまた五百旗頭節の真骨頂だった。
一方、彼の前作、前々作にくらべると、被写体である町長や町議にたいするある種の愛情や親しみもかんじられた。スキャンダルはあるけれど、町長も前町長もそれほど悪い人ではない(と私も思う)。
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