谷崎潤一郞記念館特別展「潤一郎、終活する~文豪谷崎 死への挑戦~」

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 無類の女好きだった谷崎がどんな「終活」をしたのか興味があって、芦屋市の谷崎潤一郞記念館を20年ぶりにたずねた。
 谷崎は1915年、30歳で千代子と結婚して娘・鮎子が生まれた。だが、良妻賢母の妻とはあわず、奔放な妻の妹のせい子にいれあげ、せい子を「葉山三千子」の名で映画デビューさせる。せい子は「痴人の愛」のモデルになった。
 千代子に同情する佐藤春夫に千代子をゆずると約束したが、せい子にふられて約束を反故に。佐藤は激怒して絶好する。
 けっきょく1930年に千代子と離婚し、千代子は佐藤と結婚した。「細君譲渡事件」とスキャンダルになった。
 離婚の翌年、谷崎は40代半ばで、20歳下の丁未子(とみこ)と結婚したが、まもなく人妻の松子とくらしはじめ、丁未子とは2年で離婚し、松子と3度目の結婚をする。松子は「春琴抄」や「細雪」のモデルとなった。

 特別展はこの「細雪」のエピソードからはじまる。「細雪」は戦時中の1943年1月号から「中央公論」で隔月連載がはじまった。
 だが陸軍報道部の杉本和朗少佐から「緊迫した戦局下、われわれのもっとも自戒すべき軟弱かつはなはだしく個人主義的な女人の生活をめんめんと書きつらねた、この小説はわれわれのもはやとうてい許しえないところであり、このような小説を掲載する雑誌の態度は不謹慎というか、徹底した戦争傍観の態度というほかない」と非難され、連載は2回目の3月号で打ち切られ、5月号には「自粛的立場から今後の掲載を中止しました」というお知らせが掲載された。中央公論は翌年、横浜事件で廃刊においこまれた。
 発表の場をうしなったが谷崎は「細雪」を執筆しつづける。1944年7月に上巻を私家版として上梓した。12月には中巻を書きあげた。疎開先の岡山で終戦をむかえると1948年12月に全編を完成させた。59歳だった。
 源氏物語の現代語訳「谷崎源氏」は戦時中に刊行したが、発禁をおそれて皇室の尊厳にふれる部分をぼかしたり削除したりした。それを戦後書きあらため、制限なしの「新訳」を1954年に発表した。このとき68歳。当時の男性の平均寿命63.6歳を超えていた。
 このあとは「死」や「老人の性」をめぐる作品を書きつづける。
 谷崎の母は評判の美人で、谷崎は6歳まで母の乳を吸っていた。母を性的な対象として子どものころから意識していた。生涯の女遍歴も「母恋い」だったとされている。
 70歳で書いた「鍵」は芸術か猥褻かが衆議院の委員会で議論された。
 大村幸子という美しいお手伝いさんが谷崎のお気に入りだった。1962年には「君のあの声がきこえないのはこの上もなく寂しい」というラブレターをおくった。
 「瘋癲(ふうてん)老人日記」の主人公は息子の妻に「浅マシキ魅力ヲ感ジ」る。その女性のモデルは、松子(3人目の妻)の息子(前夫の子)の嫁の渡辺千萬子だった。
 谷崎は72歳のとき、義理の娘ともいえる千萬子にたいして「ぼくは君のスラックス姿が大好きです……」「あなたの仏足石をいただくことが出来ました」(1963)といったラブレターを書いた。仏足石とは、千萬子におでこを踏みつけてもらった時のことらしい。谷崎はマゾヒストだったのだ。
 谷崎は、自分自身の女性遍歴とセックススキャンダルを小説のネタにしつづけている。自分や家族のはずかしいプライバシーを露わにするのは、よほど鈍感で強靭な精神がなければできるものではない。彼はモンスターのような性と創作へのエネルギーをもっていたのだろう。
 創作への執念は母の代償である「女」への性欲とむすびついており、モンスター的な性欲をもっていたからこそ、戦時中にも愛欲の世界を書きつづけることができたのかもしれない。
 「まじめないい人」が戦争に熱狂するなか、性欲の巨人である谷崎は軍国の世を冷ややかにながめ、それに流されることがなかった。
 79歳で亡くなったとき、文机には「犬猫記」というあらたな小説の創作メモがのこされていた。当時の70代は今の90代だ。最期の瞬間まで女と創作に狂いつづけた谷崎はやはりすごい、と思わされた。

阪神芦屋駅
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