■ちくま文庫250518
「弱いまま、強くあるということ」がテーマ。
「強いまま強い」人は、他者の痛みや弱さを想像できない。だから人とつながれない。自分の「強さ」を凌駕する力に襲われたらポッキリ折れる。人とつながるには「弱さ」という傷を自覚し、それを他者と共有する必要がある……そんなことを考えながら読んだ。
子どもは、両親の諍いをやめさせる力も、だれかを守る力もない。まわりに起きることを見つづけるしかない。
大人になったら、人の命や心を守り、人の傷を癒やすことができるはずだったが「子どものころと同じような経験ばかりをくりかえしている」。
でも実は、子どもは無力ではない。ただ「見つづける」子どもの存在によって救われる人間もいるからだ。
DV被害者は、人とのつながりや温かい家庭という夢、世界は安全だという基本的信頼感……といったものをすべて奪われるが、幸せを心から祈ってくれる「だれか」がいれば、幸せになりたいと願いつづける勇気、なれるかもしれないという希望を取りもどすことができる。「人はなにかが、もしくはだれかが、自分の安全を守ろうとしてくれていると感じるときにのみ、人として生きられる」
これもまた弱さをかかえて「祈る子ども」の意味を説いている。
ハーバード大学では、日本より質量ともにはるかに優秀な研究者がいたが、「こんなに賢い人が集まっているのに、どうして、世の中はよくならないのだろう。…そもそも、ここにいる人たちだって、あまり幸せそうに見えないぞ…幸せになりたいのにそうじゃないとしたら、いったい頭脳の高さは何の役に立つのだろう」と筆者はかんじる。
圧倒的な「強者」があつまっ集団はしなやかさに欠けるのだ。一方研究者のなかには「大いなる子ども」のような人が少なくないという。「年がいもなく」することほどワクワクすることはない。ここにも「子ども」の価値が垣間見える。
男性の(性)被害者は、被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」をとりもどそうとすることで傷を深めるケースが多いという。自分の弱さを認めて「鎧」を外し、肩の力を抜き、「弱さを抱えたままの強さ」をもつことは、男性にこそもとめられる。
「ポスト・トラウマティック・グロース(外傷後成長)」は、人は傷によって学び、成長しうることを意味する。そこには希望がある。
けれどそれが研究対象になると、「外傷後成長」の定義が決められ、「成長」の指標となる項目が選ばれ、「外傷後成長」度を測る質問票が作成される。傷を負った人たちを被験者としてくりかえし測定がおこなわれる。
「レジリエンス」は、人間を傷つくだけの存在ではなく、打ち勝つ力をもつ能動的な存在であるととらえる概念だ。それは大切なことだが、研究によって個人差が明らかになると「彼のレジリエンスが低いからだ」といった自己責任論に転化しかねない。
「イラク戦争に参加した米兵のPTSD研究の講演を聞きながらわたしは、トラウマ研究はいつから、戦っても傷つかない人間をふやすための学問になったのだろう、と思った」としるす。
成長や打ち勝つ力、トラウマ克服は大切だけど、それを追求することで、傷や弱さ、子ども的なものを捨ててしまうおそれがあるのだ。
「傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。…傷とともにその後を生きつづけること」をくりかえし祈るようにつづっている。
精神科医の目で日常を観察すると、あたりまえの風景が実は不条理であることが見えてくるのもおもしろい。以下はその抜粋と感想。
・立体視の絵をどれだけ練習しても見えない人もいる。立体視ができない独裁者は、「見える人」たちにたいして屈辱感をかんじる。それを拭い去るため立体画を禁止し、見える人たちを「異端者」として排斥する。魔女狩りも、単純にそういうことだったのではないか。
・本から重要な部分を抜粋する作業は大変だ。そんなとき、つまらない情報はなにも考えずに捨てられるからホッとする。ほんとうはおもしろい情報を探す作業なのに。
・人生は、決断の十字路の連続で決まっていくと思いがちだが、人生とは毎日のささいな選択の積み重ね、十字路ではなくY字路の連続によって方向性が決まっていくのではないのか。
Y字路がおもしろいのは、長く歩きつづけるうちにまるでちがう方向に向かったり、逆に、左右に分かれたはずの友人と、それぞれがY字路を何度か進んでいるうちに鉢合わせしたりするところだ。
・人生を長い目でみれば、ジグザグのように見えて一直線の場合もあり、寄り道のつもりが近道だったり…なにが近道でなにが遠回りなのかは、人生の最後になってみないとわからない。
「幸せ」もそんなものだと思う。「わたしは幸せ」とその時にかんじるのではなく、ふりかえって「実は幸せだったんだ」と思うものではないか。
・タクシー乗り場に長い列ができているとき、お互いに声をかけて乗りあえば効率的なのに、だれも声をかけあおうとしない。あたりまえの光景のなかの不合理を見ぬくのはけっこうむずかしい。大地震に被災したとき、非日常だからこそ、人と人がつながり絆をつくられる。
天童荒太は解説で、「無理な背伸びをして、言葉を飾ったり、勢いで書き放したり、慣用的な表現をもちいたりすることなく、たとえ煩瑣になってもいいから、誠実に言葉と向き合おうと努めていることが伝わってくる」
「…自分の外側と内側それぞれで経験した事象を、あくまでみずからがつかみとってきた言葉で語り通そうという、強い意志に貫かれた賜物だろう。だから、書かれている内容、ことに自身の揺れる心情や、考察を尽くしたのちの発見が、しぜんと心に染み入ってくる」と評価した。
そうそうその通り、と思いながら、私自身は残念ながら天童のような言葉をつむぎだせなかった。