古くからの「伝統」「伝説」とされているものが、実は最近創られたり大きく改変されたりしていたという例は少なくない。拙著「能登のムラは死なない」に紹介した行事や伝説のなかから、そんな事例をピックアップしてみた。
あえのこと

「あえのこと」は、毎年12月5日に男女の田の神様を自宅にむかえ、ごちそうやお風呂でもてなし、翌年2月9日に田んぼにおくる農耕儀礼だ。
翌春つかう種籾の俵を御神体にみたて、二股大根やブリや野菜の煮物、甘酒などを供える。目の見えない神様に「こちらが赤飯でございます」などと家の主人がひとつひとつ説明する。神様を接待したあとは、家族みんなで「神様のおさがり」をいただく。早春から晩秋までつづいた苛酷な農作業の疲れをいやす栄養補給にもなっていた。
1975年の調査では、奥能登で3411軒が「実施」、3467軒が「以前に実施」と回答したが、2009年の石川県教委のアンケートでは85人に減っていた。
高度経済成長以降の若者の流出に加え、農協が苗の販売をはじめて種籾から苗を育てる農家が激減したことも減少の原因らしい。お供えする魚や野菜も、スーパーなどから調達するようになった。社会の市場化が進むとともに生業とともにあった伝統儀礼は衰退を余儀なくされるのだ。

「あえのこと」の「あえ」は神を饗応する「饗」、「こと」はハレの行事を意味するというのが通説だ。
2013年、奥能登の民俗にくわしい珠洲市・西勝寺の西山郷史住職にインタビューした際、この「通説」についてたずねると、笑いながら首を振った。
あえのこと、という名は実は大正時代にはじめて文献に登場しており、『田の神様』『あいのこと』と、地域によってさまざまな呼び名があります。『あいのこと』は秋祭りと正月の『間の行事』という意味だと思います。柳田国男や中央の人たちが『あえのこと』と言い『饗』の字を使うようにしてしまったんです。12月9日と2月5日という日付も、実はそれだけではなく、8日と8日にやる例もありました……
12月に神様を家にむかえるのは本来はタ方でしたが、テレビ放映にあわせて午後2時ごろにするところが増えた。多少の変化はしかたないけれど、本来の姿からずれていないか検証しなければ、名前だけの行事になってしまいます。

「あえのこと」以外の伝統行事の「通説」の誤りについても語ってくれた。
もっそう飯

輪島市久手川町につたわる「もっそう飯」は藩政期、年貢の取り立てに苦しんだ農民が隠し田をつくり、その米を腹いっぱい食べたことからはじまった。毎年2月16日の早朝、まだ暗いうちに1軒の家に集まり、会話をせずに黙々と食べる。食事中に口げんかになって、重罪である隠し田の秘密がもれるのを防ぐための知恵だ。
西山さんによると、この言い伝えも事実ではない。
「隠し田伝説はあとからつくられました。あきらかにオヒガシ(真宗大谷派)の報恩講(親鸞の祥月命日前後の法要)の流れであり、『来年も豊かにみのってほしい』という行事です」
時国家


輪島市町野町にある上時国家と下時国家は、長らく奥能登観光のシンボルだった。
平清盛(1118~81)の妻・時子の弟で「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を残した平時忠が、壇ノ浦の合戦(1185年)後にとらえられ珠洲に流された。その息子の時国が町野庄(輪島市)に転居して「時国家」をおこした。
歴史家の網野善彦の研究によって、時国家は昔ながらの大庄屋ではなく、北前船(廻船業)や炭焼き、塩田、鉱山、金融業などをいとなむ総合商社のような存在だったことがわかった。昭和40、50年代の能登ブームの際には年間20万人超が押しかけた。
実はこの「平家伝説」も近年の創作という。
記録に時国家がでてくるのは近世の終わり。源平の時代からつづいている家はありません。また、徳川は源氏だから『平家の子孫』なんていっさい言わなかった。時国家が平家というようになったのは最近の話です。
観光客が減って下時国家は2020年で公開をやめた。上時国家も2023年9月に一般公開を終了した。そして2024年正月の能登半島地震で、上時国家はぺしゃんこにつぶれてしまった。

御陣乗太鼓
輪島市名舟町の夏祭りは、地元の男しかたたけない一子相伝の「御陣乗太鼓」で知られている。
7月31日夜、山の中腹にある白山神社から神輿とキリコが港にくだる。神輿を舟にのせて海中の鳥居の下まではこび、50キロ沖にうかぶ舳倉島の奥津比咩(おきつひめ)神社の祭神をむかえる。神輿が海岸にもどると神社のふもとの舞台で御陣乗太鼓を奉納する。鬼のような面をかぶり、海草をかたどった髪の毛をふりみだしてバチをふるう。
上杉謙信の軍勢が1577年に名舟に攻めこんだ際、鬼や亡霊の面に海藻の髪をふりみだして太鼓を鳴らして夜襲をかけ、上杉軍を撃退した−−
実はこの「通説」は昭和40年代につくられたストーリーという。
輪島前(わじまさき)神社の中村裕・宮司は私が2012年に取材した際、次のように説明してくれた。
海士町の人たちは400年前の永禄年間に九州から来たんです。現在の海士町天地の土地1000坪を加賀藩からもろて、「舳倉島で潜りをやれ」と働き場所ももらった。ところがそこには原住民がおった。それが名舟の衆ですよ。
名舟の衆は「先祖代々おれらの島だ」、海士の衆は「前田家から免許をもろた」と島の争奪戦が150年つづいた。
けっきょく明治31年に裁判にかかって、最後は310円で海士側が権利を買うたんです。名舟の海のなかの鳥居は、奥津姫の神を迎える鳥居です。島は売ったけど信仰が残っている。おもしろい習慣よねえ。
舳倉島のとりあいで、名舟の衆が面をかぶって太鼓たたいて夜襲をかけてきたと、海士の年寄りは言ってました。上杉謙信が太鼓ぐらいでひっこむわけがない。御陣乗太鼓は島の争奪戦のときの風習なんです。

アエノコトは柳田国男の創造
こうした能登の「伝説」創作にまつわるきわめて興味深い本が2025年7月に出版された。
民俗学者・菊地暁さんの「柳田国男と民俗学の近代 奥能登のアエノコトの20世紀」(岩波現代文庫)。2001年に出版した本を復活したものらしい。この本によると……
アエノコトが最初に登場する文書は「七浦村志」(1920)で「田祭」「田の神さま」と表記された。「鳳至郡誌」「珠洲郡誌」では「田の神様」という表記が5例、「田の神の祝」「田神の祭礼」「あえのこと」「よいのこと」「あいのこと」が各1例だった。
「あいのこと」は「秋祭と正月の中間」という意味と考えられたが、柳田国男は「私の想像ではアエが正しく、神を饗するアエでは無いかと思ふ」と説いた。たった1例しかない「アエノコト」の表記で行事の名称を代表させ、「アエ=饗」「コト=祭」という儀礼像を創出してしまった。
さらに柳田は「田の神は本来的には山と田を往復したものであり、その神格は祖霊である」と「田の神=山の神=祖霊」と断じた。彼の目にした上記の基礎資料にはそんな記述はない。これもまた、日本人の神は祖霊だとする柳田の「固有信仰論」にもとづく「想像」だった。
民間の農耕行事と宮中の「新嘗祭」の双方につながる原初的な行事という儀礼像も柳田の想像力から生まれたものだった。(要約)
「奥能登のあえのこと」は1976年に国の重要無形文化財、2009年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産になった。2011年には「能登の里山里海」が世界農業遺産になった。
その結果最近では、集落の絆づくりや地域おこしでアエノコトを復活させる動きが生まれている。ここでのアエノコトは家庭ではなく集落単位の行事に変身している。

伝統や伝説は、社会的状況によって、たえず創造・変形されつづけている。そのダイナミズムは興味深いし、かならずしも否定されるべきものではない。ただどこかに「これはつくり話です」という注釈はつけておきたいと思う。