能登早春紀行<森崎和江>

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■中公文庫250209
 海女漁のある村では、女を不浄視して船に乗せないということがほとんどない。女性を不浄視する社会は、死をも穢れとする。森崎は、性も死も切り捨てるのではなく、生命の一部としていつくしもうとした。だから鐘崎の「海女」に興味をおぼえ、能登を訪ねることにつながったらしい。
 谷川雁と三池でともに暮らした森崎が1980年代の能登をどう描いたか知りたくて手に取った。
 紀行文は小手先の描写にはしってしまい、薄っぺらな文章になりがちなのだけど、九州の基層である炭坑の町で生きてきた森崎の観察眼はするどい。1980年にはあったのに、今は失われてしまった風俗や記憶がみずみずしく記録されている。私は2011〜15年に、かなり細かく取材していたつもりだけど、21世紀には忘れられ、自分がすくいきれていなかった事実が多いことに気づかされた。1980年の能登は私が見た能登よりもさらに近代以前の「やさしさ」にあふれていた。

 北前船の風待ち港だった福浦の丘の上には遊郭があり、なじみの船頭が港を出るとき、別れたくないと泣いて離れないという歌が残っている。富来も遊郭が多かった。生神(うるがみ)には80年代にはまだ間垣があった。志賀原発計画前には、前近代の記憶が色濃く残っていた。
 「跡取りが船員だと家が絶えないからどこの家もしっかりしている」「会社勤めは妻子を連れてよそへでるから、家は絶える。けど、長男が船員だと家は絶えんね。女房が守って大きな家を建てているよ」。船員の仕事が過疎の防波堤になっていたのか。
 輪島朝市は「昔は観光の人なんていませんでしたよ。輪島塗の店だって、店張ってありますけど…店のなかに客が入るってことはありませんでした」「朝市は輪島崎のもんが行くよ。海士町からは朝市は行かんね。何人かは出とるけど」。80年代初頭にはすでに観光向けになり、その後、水産加工品を売る海士町の人が中心になっていった。
 80年代はイワシの時期は輪島の町の人たちは「はずしこ」のアルバイトをしていた。大量のイワシもらって糠漬けにした。市街地の海辺は今はマリンタウンになっているが、私が最初に行った2000年ごろは砂浜だったのを思いだした。
 珠洲の高屋海岸では30代の塚本真如さんが森崎を案内している。珠洲原発計画が発表される直前だ。真浦の「庄屋の館」は、「30代前半の和田玉昭さん」が、湯布院をまねて古民家2軒を移築してはじめたという。海藻しゃぶしゃぶを考案した和田さんはその息子だったのだろう。
 真宗の講は、みんなで食べ合うために、ひろったり作ったりして2日がかりの炊事をする。「その姿勢が保てなくなる頃、講は再編成されるのだろう」という指摘の通りになってきた。
 「日本以外の所へ行ってみたい、とか、名所を歩きたいというようなものはない……庶民の生活の小道を、ふらふら歩かねば血が薄れるような、自分に対する根源的なかなしみがある」
 そんな筆者の感覚に共感をおぼえる。(あとがきは1983年7月)

■津軽海峡を越えて
 森崎の旅は、鐘崎の海女が北上する道程をたどって能登にたどりついた。
 さらに能登の人々が北前船や北洋漁業にともなって北上する経路をたどって津軽海峡を越える。松前半島には輪島の海士町から移住した人も多かった。松前半島を選んだのは、美しく広大な北海道のなかでここだけは「本州の手垢にまみれていたから」だという。
 筆者が旅したのは1984年。私は高校2年だった1983年と大学生だった85年と86年に北海道を旅しているが「手垢にまみれた」松前半島は興味の外だった。ところが30余年後の2021年には森崎と同様の興味で松前半島を訪ねた。https://note.com/fujiiman/n/n2845f1c2ea99
 森崎の目を通して、私が気づかなかったものを拾うようにして読んだ。

 松前は合併前は福山だった。福山城名物の桜は、敗戦後に浅利政俊という教師が植えた。戦後につくられたものだったのだ。
 千軒駅の奥の大千軒岳から流れでる谷川で砂金がとれた。その砂金鉱山の労働者のなかにキリシタンがいて100余人が処刑された。
 十三湊を根城にしていた安東氏が松前に逃げてから、若狭の船がくるようになった。江戸時代にはニシンなどを目的とした北前船がやってきて、「この町は昔は武士の女房や娘が夜伽したところだ」「この寺の下に昔あった遊郭の女が奉納した絵馬です」というにぎわいに。だが明治30年代を全盛にニシンは急減し大正3年を最後に、ぷっつりと来なくなった。
 江差は、こぎれいなコーヒーショップ、小型のデパートや洋品店、飲食店が目立つ、としるす。私にはそんな商店街の記憶はない。たんに観察していなかったのか、それともさびれてしまったのか。
 アズキの餡を白玉粉で包んだうずら卵よりやや大きい団子を、吸い物にいれたという。香川のあんころ餅入りの雑煮と関係があるのだろうか。
 正月にクジラ汁を食べる風習は秋田や新潟にもある。白い脂身を薄く切って、ワラビ、ゼンマイ、豆腐など具だくさんの汁だ。太平洋でとれた塩漬けの鯨肉が江差に運ばれ、塩漬けの数の子が江差から日本海を経て太平洋側へ運ばれた。正月の祝い膳は「ないものねだり」なのだろうか。
 老舗の「横山家」のおかみによると、江差商人は公家出入りとなっていたから、江差は着るものも京風で、婚礼衣装も江戸風の白黒の二枚かさねではなく、京都風の三枚重ねだった。言葉も「あなた、おまえ、おおきに」と京言葉だった。「開陽丸が沈んだ時、江差の者は、ざまあみろ、と思ったのです。ここはあくまで京ふうですから」
 函館は明治初期からサハリンやカムチャツカにサケ・マスの漁場を開拓する漁業基地だった。能登の人も北洋漁業に従事した。戦後、「200海里」によって遠洋漁業は漁区を失い、、大資本化する企業に押されて、函館を基盤にしていた漁業家も海産物商も衰退した。
 函館は長崎に似ているが、両者のちがいも森崎は見ぬいていた。
 長崎は、祭りも風習も食事も異国の文化を内在化している。函館は一過性の渡来文明だったが、その様式を再現させる新鮮さへの意欲と経済力があった。函館のまちなみは、かつての植民地の日本人町に似ている、という。
 函館の結婚式は300人はざら。それでカネを集めるという新開地独特の合理性であり、村単位ではなく、個人を単位とした共同性のあらわれと森崎は分析する。

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