罹災証明も仮設住宅もいらない 目から鱗の防災講演

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 「能登の今を知るオンライントーク 変わらない? 日本の災害対応」を聴いた。大阪公立大大学院の菅野拓准教授の講演は、災害対応の「常識」をくつがえすものだった。以下、その要約。

 避難所での雑魚寝は1930年から変わらない。災害のたびに戦前のようになり、行政は「想定外」と口にする。
 なぜそうなるのか。
 災害とは、自然の加害力に社会の脆弱性が加わってもたらされる。
 平時は、物資・家・社会保障などはすべて民間が供給している。社会保障は、政府だけでは無理だから介護保険制度などによって担い手を増やしてきた。ところが、いざ災害がおきると、そのすべてを地方自治体が「配給」することになる。(DMATだけが例外)ノウハウがない行政ががすべてをになうなどできるわけがない。
 災害救助法は「福祉」の視点が欠けている。介護保険法には災害時のとりきめはない。災害は一生に1回程度しかおこらないからプロが育たない。だから毎回「想定外」となり、古い法律が適応されて混乱してしまう。

災害救助の制度の変遷

 1946年12月に昭和南海地震がおきた。戦前は軍が災害対応していたが、敗戦で軍が消滅した。GHQが提案して、災害時の生存権を保障する法律として1947年につくられたのが災害救助法だった。
 1959年の伊勢湾台風を機に、ハード復旧の補助率がアップされ、 「激甚指定」には国がカネをだす制度になったが、社会保障とはほとんど連動していなかった。
 1973年に「災害弔慰金」の制度ができ、その際に「罹災証明」が必要とされた。 阪神淡路大震災で罹災証明の区分が被災者支援(義援金)の基準とされ、法律化した。罹災証明の調査をするために膨大な作業が必要になり、支援の遅れがめだつようになった。持ち家も借家も同じ基準なのも本来はおかしい。

災害対応に民間の知恵

 東日本大震災では、被災者を個別訪問してケース会議で支援方針をつくる、という介護保険と同様の制度がつくられた。ケアのノウハウをもっている民間がはいっていく「餅は餅屋」のシステムで生まれた。
 行政だけに災害対応をまかせるのではなく民間もふくめてみんなでとりくむマルチセクター化と、社会保障の体系のなかに災害対応ももりこむ「社会保障のフェーズフリー化」が課題だ。愛媛県宇和島市などではそうしたとりくみ事例が生まれている。

罹災証明

 罹災証明の調査は最初は建物の外観で判断する。不服がでれば再度調査する。膨大な時間がかかる。
 罹災証明の調査はたまたま阪神淡路大震災で基準がないと困るからと編み出され、それが制度化した。だが自治体職員は建築の専門家ではない。「ものすごい人件費が高い素人」が担当するシステムになっている。
 家の壊れ具合と資産は本来関係ない。行政にとっては「基準」は便利だが、本来はまったく必要ない。
 もう一度修繕したり建て替えたりしたらいくらかかるか、という再取得価格で支援の規模を判断するべき。けがをしてる、仕事を失った、といったさまざまな要素のひとつとしてとらえるべき。保険会社にまかせてしまう手もある。いいかげんに素早くしたほうがよい。

仮設住宅は必要か

 能登の公費解体や仮設住宅が遅いといわれるが、それほど遅いとは思わない。本来は仮設住宅ではなく、数カ月はテントで住めるようにして、キッチンカーもつくって環境を整え、その間にちゃんとした住宅を建てるほうがよい。イタリアには仮設住宅はない。


緊急雇用の重要性

 能登半島地震では県庁にはいり、緊急雇用の制度をもとめてきた。仕事をつくらないから元気な人がどんどん流出してしまった。
 東北では、見守りの仕事や災害ごみの分別などを被災者を雇用しておこなったが、今回は外の事業者ばかりになってしまった。
 東北の緊急雇用創出事業は「リーマンショック」の事業を被災地に流用した。それが今はなくなってしまった。災害用に同様の制度をつくるべきだ。

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