

大阪市大正区と浪速区の境をながれる木津川の河口は1576(天正 4)年と78年、籠城する石山本願寺へ兵糧をはこぼうとした毛利水軍と包囲する織田軍が 2 度にわたって合戦をくりひろげた。
江戸時代に入ると、伝法川口(安治川が1684年に開削されると安治川口)とともに全国の米などの商品を大坂や京へはこぶための廻船の拠点になった。現在の横浜港や神戸港のような大貿易港だったのだ。
京セラドーム大阪(大阪ドーム)の東に、木津川をわたる「大正橋」がある。かつては渡し場があったが、1915(大正4)年に支間長90.6メートル、幅19メートルの大正橋が架設された。当時日本で最長のアーチ橋だった。「大正区」の名称はこの橋の名前にちなんでいる。橋は1971年に撤去され、3年後に新しい橋に架けかえられた。橋のたもとの親柱には伊予の青石(紫雲石)が原石のままのこされている。


橋の東詰の北側に存在感抜群の2メートルほどの石碑がたっている。「南無阿弥陀仏 南無妙法蓮華経」の文字の下に蓮の花が彫られ、右側面と裏面には「大地震両川口津浪記」がきざまれている。安政の大津波の碑なのだ。架橋前は木津川の渡し場のわきにあったが、大正橋ができてそのたもとに移転し、1974年の道路拡張で現在の場所にうつされた。
「津浪記」はこんな内容だ。(大阪市のホームページの現代語訳)
嘉永7年(1854年)6月14日午前零時ごろに大きな地震が発生した。
大阪の町の人々は驚き、川のほとりにたたずみ、余震を恐れながら4、5日の間、不安な夜を明かした。この地震で三重や奈良では死者が数多く出た。
同年11月4日午前8時ごろ、大地震が発生した。以前から恐れていたので、空き地に小屋を建て、年寄りや子どもが多く避難していた。
地震が発生しても水の上なら安心だと小舟に乗って避難している人もいたところへ、翌日の5日午後4時ごろ、再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち、火災が発生し、その恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ、雷のような音とともに一斉に津波が押し寄せてきた。
安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が立ち、東堀まで約1・4メートルの深さの泥水が流れ込んだ。両川筋に停泊していた多くの大小の船の碇やとも綱は切れ、川の流れは逆流し、安治川橋、亀井橋、高橋、水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋などの橋は全て崩れ落ちてしまった。さらに、大きな道にまで溢れた水に慌てふためいて逃げ惑い、川に落ちた人もあった。
道頓堀川に架かる大黒橋では、大きな船が川の逆流により横転し川をせき止めたため、河口から押し流されてきた船を下敷きにして、その上に乗り上げてしまった。
大黒橋から西の道頓堀川、松ヶ鼻までの木津川の、南北を貫く川筋は、一面あっという間に壊れた船の山ができ、川岸に作った小屋は流れてきた船によって壊され、その音や助けを求める人々の声が付近一帯に広がり、救助することもできず、多数の人々が犠牲となった。また、船場や島ノ内まで津波が押し寄せてくると心配した人々が上町方面へ慌てて避難した。
その昔、宝永4年(1707年)10月4日の大地震の時も、小舟に乗って避難したため津波で水死した人も多かったと聞いている。長い年月が過ぎ、これを伝え聞く人はほとんどいなかったため、今また同じように多くの人々が犠牲となってしまった。
今後もこのようなことが起こり得るので、地震が発生したら津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は絶対してはいけない。また、建物は壊れ、火事になることもある。お金や大事な書類などは大切に保管し、なによりも「火の用心」が肝心である。川につないでいる船は、流れの穏やかなところを選んでつなぎ替え、早めに陸の高いところに運び、津波に備えるべきである。
津波というのは沖から波が来るというだけではなく、海辺近くの海底などから吹き上がってくることもあり、海辺の田畑にも泥水が吹き上がることもある。今回の地震で大和の古市では、池の水があふれ出し、家を数多く押し流したのも、これに似た現象なので、海辺や大きな川や池のそばに住む人は用心が必要である。
津波の勢いは、普通の高潮とは違うということを、今回被災した人々はよくわかっているが、十分心得ておきなさい。犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。 安政2年(1855年)7月建立
嘉永7年(安政元年)は3つの大地震があった。1度目が6月15日(新暦7月9日)の安政伊賀上野地震、2度目が11月4日(新暦12月23日)の安政東海地震、3度目は32時間後の5日(同12月24日)の安政南海地震だ。11月の2つの地震はマグニチュード8を超える南海トラフの巨大地震だった。津波は、安政東海地震では三重県で、安政南海地震では高知県で、いずれも高さ20メートルを超えた。
当時の大坂では災害といえば火災だった。大火事になると、船に家財道具をつんで堀川に逃げる人が多かった。安政の地震の際も、家の下敷きになるのをおそれて船ににげた。だが地震の2時間後におそった津波で、大型の廻船が軽々と市中の堀川に押しあげられ、小船を押しつぶし、多くの人々が溺死した。橋もことごとくながされた。揺れの犠牲はほとんどないが、津波によって350人が死んだ。
碑文は、148年前の宝永4年の大地震で小舟で避難した多くの人が死んだことをとりあげ、「長い年月をへて、伝え聞く人はほとんどいなかったため、また多くの人が犠牲となってしまった……」となげく。そのうえで、「願くハ心あらん人年々文字よミ安きやう墨を入給ふへし」(時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい)とむすんでいる。
「墨をいれる」という碑の教えを今も住民がまもりつづけている。地元では碑を「お地蔵さん」とよび、記念碑保存運営委員会(幸町3丁目西振興町会)が、毎年8月22から24日の地蔵盆にあわせて碑を洗い、文字に墨をいれているという。

安政地震の津波の碑は徳島や高知の遍路道や紀伊半島でもよくみかけた。だが大正橋のように信仰と年中行事のなかに災害伝承をくみこんだ例は知らなかった。


災害の記憶はなにもしなければわすれられてしまう。南三陸町防災対策庁舎や奇跡の一本松(陸前高田市)のような「遺跡」や慰霊碑、資料館はとても大切だ。
能登ではどんな形で被災の記憶をのこすのか。
1910(明治43)年の大火事で輪島市中心の河井町では1100戸が全焼した。そのときの教訓をつたえる「遺跡」があれば、能登半島地震の火災でなにか役だたなかったろうか? 今回、朝市通りに焼けのこった建物の一部を「遺跡」としてのこすべきではなかったか?……できるだけはやく、災害の記憶伝承に手をうたなければならない。
「震災後の地域文化と被災者の民俗誌」を読んでいたら、大正橋についての記事の末尾に、対岸の尻無川にかかる岩崎橋につたわる「現代の怪異譚」が紹介されていた。

1990年代後半、大阪ドームなどの開発工事にたずさわる人々が毎晩岩崎橋を通るとき、大勢の白い着物を着た人たちがぞろぞろと川からあがってくるところを目撃した。その恐怖で仕事をやめる人が続出し、岩崎橋をつけかえるときに寺の住職に拝んでもらったところ、以後そのようなことはなくなった……。