「最上の食べもの」は乳製品
醍醐寺の「醍醐」は古代の乳製品のことだ。
仏教の経典「大般涅槃経」では「五味の最上なるもの」として以下のように記している。
「牛より乳を出し、乳より酪(らく)を出し、酪より生蘇(しょうそ)を出し、生蘇より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐を出す、醍醐は最上なり。もし服する者あらば、衆病皆除く」
修行により少しずつ高度な教義を習得し「大涅槃経」という最上の境地に達することを、乳を加工して最高の食品である「醍醐」をつくる過程にたとえている。この最高の乳製品が「醍醐味」の語源となった。
醍醐ってどんな食べものなのか? 中世にはつくられなくなったため、はっきりはわからない。でも、牛乳を煮つめて濃縮し、それをさらに熟成させたものらしい。
乳を10分の1に煮つめた「蘇」コロナで注目
文化人類学者の石毛直道さんによると、醍醐の前段階の「蘇」は、文武4年に宮廷が命じてつくらせた記録があり、「乳を10分の1に煮つめると蘇ができる」と記されていた。加熱して表面にできる膜をくりかえしすくいだして得られた乳皮であり、ウルムとよばれるモンゴルの乳製品とおなじだという。蘇を口にしたのはごくかぎられた人だったから、12世紀以降、貴族社会が没落して忘れ去られた。(「日本の食文化 旧石器時代から現代まで」)
奈良県では、奈良文化財研究所飛鳥資料館(奈良県明日香村)と「西井牧場」(同県橿原市)が1987年に復元した。新型コロナウイルスで学校の休校があいつぎ、牛乳がだぶつくなか、牛乳の大量消費手段として蘇はSNSで注目された。
廃仏毀釈から守られた国宝7万5000点
古代の超高級食品の名を冠した醍醐寺は、地下鉄東西線醍醐駅から、真新しい公営住宅や住宅街を抜けた山際にある。
三宝院は、秀吉の醍醐の花見を機に整備され、池や木々、石庭を組み合わせた広大な庭園をそなえる。表書院も、金色の橘の花がいろどられた「唐門」も、仁王門をくぐった伽藍にある金堂(本堂)も国宝だ。金堂は秀吉の命令で紀州から移築された。本尊の薬師如来坐像と両脇の日光・月光菩薩は重要文化財だ。
五重塔(国宝)は951年に建てられた京都最古の木造建築という。建物も仏像も国宝や重文だらけ。仏像をかざる仏像棟には平安から鎌倉の仏像がずらりとならぶ。
醍醐寺には国宝が7万5000点もある。これだけ多いのは、廃仏毀釈のときに流出させずに残したからだ。
山の神も感動した「最高の水」が寺の起源
醍醐寺から山上の上醍醐寺へは醍醐寺の裏の女人堂で拝観料600円をはらって谷間の登山道を登る。
ひんやりしめった空気が満ちた谷をさかのぼると、ところどころに丁石がある。途中の不動の滝の水の味はやわらかい。50分ほどで標高400メートルの尾根にたどり着いた。
1434年築の清龍宮拝殿と、1121年築の薬師堂は国宝、1606年に豊臣秀頼によって再建された如意輪堂と開山堂は重要文化財に指定されている。
本来、准胝堂(本堂)が一番高いところにあるべきなのに、上醍醐では聖宝上人をまつる開山堂がそれより高い場所にある。五来重によると、聖宝が伽藍配置をする際に、自分の墓を高い位置に決めたのだという。開山堂からは1608年に聖宝の遺骨が発掘され、昭和の解体修理でも確認された。
暗く落ち着いた堂宇の周囲に、新緑の木々が明るくきらめき、ウグイスの声がひびきわたる。初夏の山寺は命の芽吹きに満ちている。
清龍宮の奥には「醍醐水」というお堂があり、そのなかに井戸がある。醍醐水が醍醐寺の発祥の場らしい。
874年、醍醐寺を開いた聖宝が、修行する場をもとめて歩いていると、山の神が翁の姿をしてあらわれた。湧き出る水を口にふくみ、「ああ醍醐なるかな」と感嘆の声をあげたと伝えられている。この山は水神を中心にした修験の山として開かれたのだ。
お堂にもうけられた蛇口を開けると、その水を味わえる。不動の滝の水と同様やわらかい味だが、こちらの方がわずかな渋みを感じる。
醍醐水の上の斜面に「准胝観音堂再建予定地」がある。1968年に再建された准胝堂が上醍醐の本堂で西国11番札所だったが、2008年8月24日未明、落雷による火事で本尊の准胝観音坐像とともに焼失した。
准胝堂は、聖宝が醍醐寺を開山する際、醍醐水のほとりの柏の霊木から准胝観世音菩薩を彫り、その柏の木があった場所にお堂が建てられたと伝えられている。
上品な甘みの古代のミルキー
帰宅して、SNSで紹介されているレシピをもとに「蘇」をつくってみた。
牛乳1カップを小型フライパンで中火にかけ、しゃもじでかきまぜながら15分ほど煮つめる。固まってきたら弱火にして、クッキーの生地ぐらにねっとりしたら火を止め、ラップなどで形をととのえる。
肌色がかったリコッタチーズのようなものが23グラムできた。ヨーグルトよりこくがあり、バターほど脂っこくない。鼻に抜ける香りはミルキーに似ている。乳の味が凝縮して上品な甘みだ。
日本に砂糖をもたらしたのは遣唐使だが、きわめて貴重だからごく一部の貴族が薬用にするだけだった。砂糖製造は1623年、琉球の儀間真常が部下を中国で製法を学ばせたのがはじまりとされる。砂糖が入手できない時代、蘇の甘みはとても貴重だったのだろう。(つづく)