2025年9月末、1年ぶりに福島県の原発事故被災地をたずねた。JR常磐線富岡駅の裏は津波にやられて草原がひろがっていたが、ブドウ畑がつくられ、レストランのような建物ができている。農園の若者が10人ほど、列車にむかって手をふっている。





午前11時に大野駅に到着し、西口におりると、風景は一変している。
2021年は駅舎は新しくなっていたが、駅前の商店街はバリケードで封鎖され、商店や公共施設は荒れるにまかされていた。駅前は除染されたはずなのに、線量計は通常の5倍の0.264μシーベルトという数値だった。2023年10月にはその街がまるごと撤去され、広大な更地になっていた。

その更地は「大野駅西交流エリア」と名づけられ、今年3月、貸事務所やホールがある産業交流施設「CREVAおおくま」と飲食店やコンビニなどがある商業施設「クマSUNテラス」がオープンした。CREVAには、環境省の「中間貯蔵事業情報センター」も移転した。


2つの施設以外は広大な駐車場になっている。
4キロはなれた大川原地区の役場まで歩くことにした。2021年には両側はバリケードがつらなっていた。

「自動二輪車 原動機付自転車 軽車両 歩行者は通行できません」という看板があちこちにあり、否応なく放射能を意識させられた。そんな看板も今はない。

双葉翔陽高校は震災後、いわき市に移転したが、2017年に休校になった。その近くに「フルーツガーデン関本」がある。なぜこの名前をおぼえているのだろう?


取材ノートを検索すると、2022年11月に1日限定で開催されたキウイ販売イベントを見学したのだった。
かつてキウイやナシは大熊町の特産品だった。「フルーツガーデン関本」は原発事故で避難を強いられ、避難先の千葉県で栽培を再開した。キウイを町民にとどけるためのイベントだったのだ。その建物には人影はない。


近くにあった旧大熊町役場も、放置されたまま雑草がはえた軽トラックも消えた。双葉翔陽高校の校舎はまだのこっているが、まもなく撤去されるのだろう。「解体除染をしています」の看板だけが原発事故被災地らしい。バリケードも役場も商店街もなくなった。
大川原築に新設された小学校周辺でも、通常の10倍の0.5μシーベルトという線量があたりまえのように計測されている。国道沿いのバリケードの内側はいまも未除染の「帰還困難区域」だ。なのに町内各地にあった線量計は消えてしまった。原発事故の記憶そのものが消されつつあるようだ。
全町避難を強いられた大熊町は、現在の役場がある大川原地区などが2019年に、かつて中心だった大野駅周辺が2022年に避難指示が解除された。その時間差ゆえに二段階の復興となり、ふたつの中心にができてしまった。


2つの中心のあいだの約4キロの道のりは、ところどころに民家がある以外は田も畑もない。雑草におおわれた荒れ野がひろがっている。道路端に蔓草に覆われた火の見櫓がある。周囲には集落があったはずだが、今はない。象徴的な風景だ。

メガソーラーも放射能汚染で農業ができなくなった原発事故被災地の象徴といえる。一望する展望台がつくられている。

1時間余りで、役場や復興公営住宅、飲食店、東電社員の住宅などが集中する大川原に到着した。