桑園再生へ健康食品を開発
幕末から第2次大戦がはじまるまで、生糸は日本の最大の輸出産品で、福島県は群馬県に次ぐ養蚕地帯だった。
NHKの連続テレビ小説「エール」の舞台となった川俣町は養蚕がさかんで織物工場があったため、国鉄川俣線(12.2キロ)が1972年まで福島市とのあいだをむすんでいた。「おかいこ」による繁栄で、東北初の日本銀行の出張所は福島町(福島市)にもうけられた。
東和町でも、敗戦直後の混乱がおさまるにつれて養蚕が復興し、1953(昭和28)年には全農家1784戸のうち7割の1280戸が養蚕にたずさわった。
輸入生糸や化学繊維におされて繭の価格はしだいに下がり、逆に桑専用の肥料の値段は高騰する。福島市周辺ではリンゴなどにきりかえ、福島県は「くだもの王国」になっていった。
阿武隈山地では平成になっても養蚕がのこったが、今も旧東和町でつづけているのは4軒だけだ。
全国の養蚕農家数は、ピーク時の1929年には221万戸、1989年には5万7230戸あったが、2020年には228戸(福島県は25戸)になった。繭の生産量は1930年40万トン、1989年1062トン、2020年は80トン(福島県は14トン)に減った。だが、高品質で希少な国産の繭は最近は値上がり傾向にあり、1975年と同水準の価格にもどっているという。
東和町では、荒廃しつつあった桑園の活用が最大の課題のひとつだった。
1999年、東京に本社がある国際漢方研究所が東和町で、桑茶、桑エキスの健康食品の生産をはじめた。それを機に、町内の農家が「東和町鍬薬生産組合」を設立し、桑茶や桑パウダーをつくって販売しはじめた。
2000年には、直売所と体験交流施設と加工場を兼ねた東和町活性化センター「道草の駅 あぶくま館」(2004年から「道の駅ふくしま東和」)がオープンした。
商品は地元産にこだわり、酒は二本松市内の4つの蔵のものだけをおき、ジェラートも地元の野菜や果物をつかう。大手業者の箱菓子や袋菓子はあつかわない。ただ、地元住民がもとめるバナナやミカンをおくこともある。そのたびに「それはちがうんじゃないの?」と議論している。2022年2月におとずれた時は、地元野菜の大きな売り場のはしっこに遠慮がちにバナナがならんでいた。
合併への危機感でNPO結成
1999年の合併特例法改正からはじまった「平成の大合併」で、東和町周辺の自治体も2003年ごろから合併協議をはじめた。
合併すると、東和町は新しい二本松市の端っこになる。平地の二本松市街が中心になるから、中山間地独自の施策がうすまってしまう。
菅野さんらは合併反対の運動をしたが、「交付税を減らされたら生きのこれない」と、町長や議会は合併賛成になびき、合併の是非を問う住民投票条例案は議会で否決された。
危機感をもった有志9人が、つみあげてきた地域自治や農業をどう守りそだてるかかたりあうなかで、「ゆうきの里づくり」という方向性をかためた。
当時の町長から「NPOをつくったらどうだ?」と助言され、2年間準備して、4市町合併を間近にひかえた2005年、農家と商店が中心になってNPO法人「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」が発足した。
「有機質堆肥による土づくり」をベースに、地域コミュニティや都市との交流など「有機的な人間関係」をはぐくみ「勇気をもって取り組む」ことによる新しいふるさとづくりをかかげた。
担い手の中心はかつての青年団活動の有志たちで、菅野さんが初代理事長に就任した。
「青年団が終わっても、PTAの役員や消防団、演劇や講演会などの文化運動で顔をあわせていた。それがNPO結成につながりました」
活動拠点の道の駅は女性の「居場所」にもなった。
嫁の立場では「友だちと遊びにいく」とは言いにくいが、「道の駅にいく」と言えば、販売や会議などを名目にでかけやすい。道の駅で気楽におしゃべりできる。
農協に出荷する野菜の売り上げは世帯主の通帳に振り込まれるが、道の駅での売り上げは生産者個人の通帳に振り込まれる。それが女性の経済的自立につながっている。
2010年度のNPOの事業高は約2億円に達した(道の駅の売り上げは9300万円)。
そんな時におそったのが福島第一原発事故だった。
東北の野菜を忌避した都会の消費者
「耕して種をまこう」と、東和地区の有機農家は震災直後も田畑をつくりつづけたが、都市の消費者の反応はきびしかった。
菅野さんが関西でひらかれたシンポジウムに参加すると
「福島で農業なんてとんでもない!」
徹底的に農産物を測定していると説明しても
「米からは検出されなくても土には放射能があるんでしょ?」
まゆみさんも、大阪府内の女性グループを訪問して放射能は検出されていないと説明したが、次々に反論された。
「限界値より少ない量ははいっている可能性はありますよね」
「うちは若い人とすんでいるからあかん」
「東北の野菜はだめになった」……
「大阪弁で強く言われるのはきつかった。私ら東北の人間はだまーって考えこんでしまうんです」
都市の消費者だけではない。福島のお母さんたちも「福島の野菜は食べたくない」と県外の野菜を買っていた。
自分のつくる野菜や米に誇りをもっていた農家にはつらい日々だった。
NPOが復興と自治の拠点に
東日本大震災後、「ゆうきの里東和」が農業と地域の復興をになった。
原発事故後、いちはやく京都の企業からガイガーカウンターの寄付をうけ、空間線量を測定して農地の汚染マップを作成した。7月には、農作物の放射能を測定する「放射能測定所」を道の駅にもうけた。測定結果を、農家と消費者に公開することで安心感をもたらし、営農の継続と販売の回復につなげた。NPOは利益を目的としないから、企業とも行政とも研究者ともつながりやすかった。
東電に被害の賠償をもとめて交渉するのは個々の農家では手にあまる。市役所は「個人の利益関係だから」と手伝ってくれない。
NPOで東電の担当者をよんでくりかえし相談会をひらいた。
「エゴマが売れないぶんは補償しろ」と要求すると、東電の担当者はこたえた。
「売れないものはつくらなければよい」
栽培しなければ賠償請求すらできないのに……。
2012年には桑の葉から放射能が検出された。商品はすべて回収した。
桑の粉末化を委託していた群馬県の工場は「福島県内のものはあつかえない」とことわってきた。
桑の木はすべて植えかえ、その費用は東電に賠償させた。県の補助金で粉末に加工する機械を導入した。
「個々の農家が東電と交渉するなんてとても無理だった。行政もたすけてくれなかった。NPOという自治組織があるから対応できました」