観光客のいない白砂のビーチ
八重山諸島は何度も訪ねているが、本島の西100キロの久米島は訪ねたことがなかった。
泊港からフェリーに乗り、渡名喜島を経由して3時間半。兼城港におりるとがらんとした待合室と小さな土産物屋があるだけ。バス停も見あたらない。観光歓迎ムードにあふれた石垣島に比べるとあっけにとられる静けさだ。
東海岸のイーフビーチ沿いの民宿を予約している。町営バスで20分余り。久米島はけっこう広い。終点の「営業所前」でおりる。ハワイの田舎のようなコンクリートの建物がならぶ謝名堂という集落には、民宿や小さなホテル、居酒屋などが点在する。シーズンにはにぎわうのだろう。
「じゅごん」という民宿は1泊4500円。部屋が広く、机といすがあるのがありがたい。
近くの店でレンタバイク(24時間4000円)を借りた。
まずは南の岬へ。3キロ走った道路のどんづまりにバイクを置いて15分ほど歩くと、怪鳥が空に向かって大口を開けているような奇岩「鳥の口」があった。左右両側に海が広がっている。
岬の山を突っ切るアーラ林道には桜並木があり、1月には満開だったという。新緑のトンネルをくぐっていると、ときおり赤紫のサクランボが見つかる。ちょっと渋みはあるが甘酸っぱい自然の味だ。
人里と隔絶された白砂のアーラ浜は、ゴムボートをこぐ男性とカップル1組しかいない。まるでプライベートビーチだ。イーフビーチもこの浜もウミガメが産卵に上陸するため、キャンプや焚き火は禁じられている。
「石垣島とかはすごいにぎわってるけど、ここの魅力はなーんもないことだな」
バイク屋のおやじが言っていたとおりだ。
公立久米島病院の裏の久米島博物館は、久米島の自然と歴史、民俗をわかりやすく展示している。きっと優秀な学芸員がいるのだろう。
亀の甲は巨大柱状節理
夕方、イーフビーチの北に浮かぶ奥武島に橋で渡ると「畳石」があった。
巨大な亀の甲のような岩が南北50メートル、長さ250メートルつづいている。恐竜映画に出てきそうな風景だ。実は柱状節理で、地下深くまで六角形の柱が埋まっているという。
柱状節理の岩礁は北陸でしょっちゅう目にしていた。能登半島の曽々木海岸(石川県輪島市)の岩倉山にある「千体地蔵」は柱状節理が千体の仏像を削り出したかのように見える奇観だった。六角形の柱のひとつひとつが「地蔵」になっていた。畳石の柱状節理はそれよりはるかに巨大な「柱」なのだ。
久米島は養殖クルマエビの生産量が日本一らしい。「波路」という居酒屋でその刺身を食べた。「血いりちゃー」という豚の血液を使った料理は見た目と異なり上品な味だった。刺身は、南国だから脂はのっていないが、これはこれでおいしいと思う。
岩礁を切りだして石垣に
翌日は早朝からバイクで島をまわる。夕陽が美しいという西の端のシンリ浜はコンドミニアムのような施設はあるが、石垣島などのリゾートに比べると規模が小さくてかわいい。人影もない。
空港を経て北側の海岸に出ると、クルマエビの養殖場があり、その西側の海岸まで歩いた。
黒々とした岩礁だが、その岩礁のあちこちに、小さなプールを思わせる深さ1,2メートルの四角い穴が開いている。「北原海岸の石切場」と呼ばれている。
海岸の地質は、大昔にサンゴが堆積してできた琉球石灰岩だ。戦前までそれを切りだして、屋敷囲いや家の壁などに使っていた。人力で岩場を切り出すとはとてつもない労力だ。現代の僕らが失ってしまった技と知恵を駆使していた。産業革命や最近のIT革命などを経て、人間個人の能力ははるかに衰えてしまったのだと実感させられる。
久米島には、サンゴ由来の石灰岩のほか、火山性の安山岩の地層もあり「石材の島」とも言われていた。亀の甲のような「畳石」や、海岸に屏風のように屹立するタチジャミ(立神)は火山性の岩石という。
石灰岩の地層も多いから当然、巨大な鍾乳洞もある。(ヤジャーガマ)
中国交易の中継地が育んだ独自文化
海辺の具志川城跡は、海岸にぽっこり突き出た高さ25メートルの石灰岩の台地に築かれている。石垣は石灰岩だけでなく薄い板状の安山岩も使われている。石灰岩と板状の安山岩を交互に積み重ねている様子が興味深い。
元や明代の輸入陶磁器や古銭、金属製品などが出土しており、14−15世紀に築かれ、海外貿易が盛んだったことがわかるという。
琉球と中国の間は古くから船が行き交っていた。久米島はその途中にあるため「風待ち」に使われた。交易ルート上にあったから、独特の文化が発展した。
久米島紬という精巧な絹織物がある。この技術も、中国から渡ってきたと思われる。15世紀以前からはじまり、王朝時代は貢ぎ物にされた。久米島紬の里ゆいまーる館で、その制作過程を見学できる。
気候が温暖だから1年中桑を収穫できる。カイコは25日で4回脱皮し、桑を食べなくなったら「まぶし」にうつし、2昼夜で繭が完成する。手回しの糸車で糸をつむぐこともできるが、久米島ではすべて指で手つむぐ技法も受け継いでいる。天然染料のみで染色し、は1カ月かけて織る。
養蚕から機織りまで各家で担っていたが、養蚕は20年余りとだえていた。「ゆいまーる館」で20年程前に養蚕を再開したという。現在、60人ほどが久米島紬づくりにかかわっている。
水田集落のまとまり
途中で立ち寄った国の重要文化財、上江洲(うえず)家住宅という屋敷は、立派な石垣とフクギに囲われている。代々、間切(現在の市町村)の地頭代を勤めた旧家で1754年に建てられた。
屋敷のある西銘という集落は、昔ながらのムラの空気感が残っている。
「ヒランサー」は洗濯場や水汲み場。今は用水路があるだけだが。17世紀はじめに開削された「西銘新溝」が流れていて周囲の水田をうるおしていた。「殿内」と呼ばれる祠や福木、「泰山石敢當」という、年号入りでは県内最古の石敢當がある。「雍正11年」というのは琉球で使われていた中国の年号で1733年にあたるという。
この集落の雰囲気は、共同作業が多い米作りの農村のそれに似ている。水の豊かな久米島は溜め池が17世紀から整備されていた。久米島というのは「米の島」を意味するらしい。だが戦後、台風や干ばつ、復帰後の減反政策が加わって水田はサトウキビ畑に転換されてしまった。
民俗文化という意味では、比屋定という集落のウティダ石(太陽石)という丸石にも驚いた。500年前の尚真王の時代に、日の出を観測した遺跡らしい。日の出の位置の移動によって季節の移り変わりをとらえていた。単なる信仰対象ではなく古い時代の農事暦だった。
天空の城は戦後壊された
標高310メートルの島の最高峰の頂上には宇江城の城跡がある。沖縄県内の城跡ではもっとも高い場所にある「天空の城」だ。自衛隊のドーム型のレーダーとならんでいる。
ふもとからバイクで15分ほどで頂上にたどりついた。360度の展望が広がる。平地部分はもとは水田だったが、ことごとくサトウキビ畑になったことが上から俯瞰するとよくわかる。
城壁は石灰岩が一般的だが、この城は平たく割った安山岩を野積みしている。
久米島は本島ほどの砲撃にはさらされていない。だが日本軍によって20人以上の住民が「スパイ」容疑で虐殺された。そのなかには赤ん坊もいた。
宇江城は戦後米軍が基地をつくり石垣を破壊した。返還後は自衛隊の基地になり、2001年にその一部が返還されて城跡が一般人に公開された。
こんな離島でも21世紀になるまで「戦後」がつづいていたのだ。