2011年3月、福島第一原発が爆発した。「安全安心」の野菜を首都圏などに届けていた福島県の有機農家にとっては致命的な事態だったが、「耕して種を播こう」と、事故後も耕作をつづける農家がいた。阿武隈山地と二本松市の平野部で放射能汚染に立ち向かった農家の10年を紹介します。
降り注いだ放射能
2011年3月は穏やかな天気がつづいていた。ほうれん草は地面をはうように葉を広げ、ネギもすくすく育っている。例年より早めにまいた春野菜も芽を出し、豊かな稔りを予感させた。
福島県二本松市のJR二本松駅から約2キロ、標高220メートルの阿武隈川沿いの盆地で有機農業を営む大内督さん(1973年生まれ)は野菜の出荷を終えて車で帰宅する途中、3月11日午後2時46分を迎えた。
二本松市でも震度6弱を記録したが、自宅の被害は、食器棚の皿が崩れ、土壁が少しはがれた程度。だがまもなく空が暗くなり大粒の雪が降ってきた。この世の終わりのような不吉な光景に思えた。
長い停電から復旧すると、テレビに映った津波の被害に督さんは絶句した。
さらに福島第一原発では12日に1号機、14日に3号機、15日に4号機が水素爆発する。放射能に追い立てられるように太平洋岸から約7000人が避難してきた。
避難所にはパンやおにぎりしかない。農家が野菜を持ち寄って炊き出しをはじめる。畑のほうれん草をおひたしにして、豚汁を大鍋でたいた。あたたかい豚汁のまわりには、くんくんと鼻をならして子どもたちが集まってきた。避難所を視察に訪れた二本松市の市長は「二本松は牛乳がいっぱいあっから、明日からは牛乳も出すぞ」と言った。
だがその日の夜、ほうれん草も牛乳も出荷停止になる。牛乳は山の沢水を飲ませている地域でセシウムが出た。自然のなかで健康に育てていた牛がまっさきに放射能にやられた。
それからは露地のほうれん草は出せない。貯蔵していた白菜や大根で炊き出しをつづけた。
野菜の声を聴く
督さんの父、信一さん(1941年生まれ)は有機農業を1970年ごろから手がけ、78年に二本松有機農業研究会を結成した。提携する消費者に直接野菜を届け、田植えや稲刈り体験などを受け入れて消費者とのあいだに顔の見える関係をはぐくんできた。
原発事故の放射能が降り注ぐなか、督さんと信一さんは、ほうれん草や小松菜、キャベツなどをすべて引っこ抜き、畑の隅に積み上げていった。野菜に対して申し訳ない。むなしくてつらい作業だった。「もう二本松で有機農業はできないのではないか」と督さんは思った。
一方、父の信一さんは「つくってみなければわからん。だめなら耕耘してしまえばいい」と、例年と同じように畑を耕し、種を蒔き、野菜を植えつける。ためらうことなくひとりでどんどん作業を進める。
督さんは父の行動が理解できなかった。
「こんな状況で田起こしをしていいのか、種をまいていいのか。1年間様子を見て、研究機関とかの調査の結果を見てからの方がよいのではないか……」と悩んだ。
父の信一さんは当時なにを考えていたのか。
原発事故後、「だれも外に出るな、放射能がどんどん降ってくんだから」と言われるなか、信一さんはほうれん草畑を見に行った。雪が解けて最初に種をまくのがほうれん草だ。すでに直径20センチのロゼット状に育って畑の土を緑の葉が覆っている。
「僕らが畑を守ったよ」
ほうれん草の子たちが言った。
「なんかおかしな食べ物がいっぱいあるよ」
「おいしくないんだよな~」
「でもおなかがすいたらこれも食べざるを得ないなあ~」
おかしな食べ物とはセシウムのことだ。
「やっぱり堆肥や有機質の栄養のほうがおいしいな~」
セシウムは食べたくないけれど、腹が減れば食べざるを得ない--。そんなほうれん草の叫び声が聞こえ。軽トラック10台分のほうれん草を捨てながら、ほうれん草が自分の身を犠牲にして土を守ってくれたと思った。
一方、膝ほどの高さまで育っていたネギは
「私たちはスベスベしてっから、放射能をまったく受け付けませんよ。根っこからも吸わねから、すぐに食べられるし、出荷できますよ」と言った。
実際、ほうれん草や小松菜はどんなに洗っても1㎏あたり800から千ベクレルのセシウムが検出されたが、ネギだけは水洗いすれば放射能は出ず、4月から出荷できるようになった。
「ネギは肌がすべすべで、病気になっても農薬がすべって流れてしまうから効かないと言われています。そういう知識があるから、おやじはネギがそう言ったように感じたんだと思います」と督さんは振り返る。
かつて東北は5年10年に一度は大冷害に見舞われた。大冷害の年はお盆でもこたつがほしくなる寒さだった。田んぼはあきらめるしかないと思った。常識では、夏の気温が15度以下では稲の花粉ができず実を結ばない。ところがそんな年でも、ふだん(1穂で約100粒)の2割か3割は実がつまっていた。
「おう、お前たちどうしたの!」と信一さんが稲に尋ねると、
「この寒い夏に、この土でこの稲の体では、みんなで生きたら全滅するぞって相談して、『俺はここで死ぬからお前、元気そうだから生きて子孫を残せ』と話し合った……」
そういう稲の声が聞こえてきたという。
「大冷害の時と原発の時に、私は作物のなかからそういう声が聞こえたと思う。だから原発事故でも作物の強さとか、賢さを信用してみようと思った」と信一さんは2013年に開かれた「使い捨て時代を考える会」の講演会で語った。
督さんは父が野菜とそんな会話を交わしているとは気づかなかった。でもたしかに自分でも稲や野菜は家族のように思える。
「土をさわるのは楽しいし、田んぼにずっといても苦にならない。天気が荒れて強風にざわざわ揺れているのを見ると『がんばってるなぁ』と思う。農作業中はひとりだから話す相手が野菜と土しかない。友だちでもあり子どもでもあるような感覚になるんです」
産直の危機 「消費者」は離れていった
取り引きのあった生協などの組織は「測定器で測って、(放射能が)出なければ扱います」と言ってくれた。福島を応援しようという雰囲気もあって、春野菜と夏野菜はよく売れた。
10月12日に知事が福島県産米の「安全宣言」をした。だがその1カ月後に、農家が自主的に測った米から基準を超える1キロあたり630ベクレルが検出された。行政の検査はザルではないのかという不信が高まり、福島の農産物は大打撃を受けた。
大内さんが野菜や米を直接届けていた消費者は、安心・安全な農作物を求める人が多かった。原発事故後、その6割が離れた。離れた人の多くが熱心に活動していた人だった。
「農業を守ろうとつながってきたつもりが、単なる『消費者』になっちゃった。これだけ顔の見える関係を大事にしてきたのに、と思うと本当につらかった」
でも督さん自身も「福島の農産物を売っていいのか? ここで本当に農業をやってよいのか?」と悩んでいた。自分が消費者の立場だったら離れてしまったかもしれないとも思った。
残ってくれた4割のお客さんには野菜を届ける際には「ND(未検出)といっても放射がゼロというわけじゃないんですよ」と説明した。すると、
「大内さんも食べてるんでしょ?」と聞かれる。
「はい」と答えると
「じゃあ大丈夫じゃん」と買ってくれた。そんな経験を1年間積み重ねてようやく落ち着いて農業をつづける気になれたという。
「化学肥料や農薬をばんばんつかって増産するのが当たり前だった時代におやじは有機農業をはじめた。有機や無農薬に対するバッシングはすごかったはずです。『こんなんで負けてられっか!』という気持ちだったと思う。おやじたちはたくましい。僕らみたいに甘っちょろくないですよ」
ソーラーシェアリング 畑と発電が共存
二本松有機農業研究会は2012年から計6回、フィリピン・ネグロス島や東チモールの住民を支援してきた東京のNGOなどと協力して「福島百年未来塾」という勉強会を開いた。そのなかで、農業にかかわりながら、コンセントの向こうにあるエネルギー問題にまったく無知だったことに気づき、研究会のなかにエネルギー部会を立ち上げた。
当初、督さんは太陽光発電に違和感を覚えていた。再生可能エネルギー固定価格買取制度(FIT)がはじまり、陽当たりのよい山の南斜面や、米や野菜ができるはずの広大な農地が太陽光パネルで埋め尽くされていく。「これのどこが再生可能なの?」と思った。
福島県は「2040年までに再生可能エネルギー100%」の目標を掲げ、各種の補助金の制度を設けた。そうした国や県の補助金を使って、大手企業が山を買いあさってメガソーラーをつくり、洋上風力発電のプラントを手がける。そうした大規模施設では維持管理も地元業者には担えない。地元の雇用につながらない。「再生エネルギー100%」でも福島のものではなくなってしまう。これでは原発と同じじゃね? と思った。
農家らしいエネルギーとして、最初はバイオガスに注目した。
生ゴミや糞尿、デントコーン、ソルゴなどを発酵させたメタンガスで発電する。副産物として畑に還元できる液肥ができる。だが勉強を進めると、高額の初期投資が必要で、設備を維持する労力も大変だ。とても手が出る代物ではなかった。
農作業がひまな冬に勉強会を開き、春から秋の忙しい時は忘れ、また冬が来ると盛り上がることを2、3年くり返した末に「勉強ばかりじゃなくて行動に出ませんか」と促された。
2015年、「会津電力」のソーラーシェアリングを見学した。ソーラーシェアリングとは、農地で野菜をつくりながら作物の上に設けた太陽光パネルで発電するシステムだ。
農地をびっしり埋め尽くす一般の太陽光発電とはことなり、ブドウ棚のような見た目で山間の景観とマッチしている。田畑はもともと日当たりがよいから、新たに山を切り開く必要もない。狭い日本、土地を立体的に使うのは理にかなっている。
山あいの2反(20アール)の畑に仲間の力を借りて、アルミパイプをブドウ棚のように組み上げた。トラクターで作物を収穫できるように、高さは2.5メートルから4メートルにした。その上にソーラーパネル約1300平方メートルをならべた。土台の測量と基礎づくりと電気設備以外は手作りだった。
パネル1枚(70ワット)あたり7000円で募ったサポーターや生協組織から計480万円の支援を受け、残りは金融機関から借りて1620万円の建設費を捻出した。
2018年8月に完成。年間約7万6000キロワット(一般家庭十数軒分)を1キロワットあたり27円で売電し、年間200万円超の売り上げになっている。
3月末に訪れると、太陽光パネルの下には青々とした若い麦が風に揺れていた。
気候変動で農作物の収量が安定しない。売電収入はそれを補う副収入になる。さらに、今後蓄電池を設ければ、災害時の非常用電源にもなる。
「現在のような集中型のエネルギー社会には未来はない。個人や小さなグループが小規模な発電所をつくり、分散型のエネルギー社会ををつくる必要がある。地域のなかにカネや人の流れをつくるため、苦労してでもとりくまなければならないと思っています」と督さんは語った。
消えた「山歩き」
二本松市の中心から東へ10キロ。ふとんのようなゆるやかな山がつらなる阿武隈山地を分け入ると旧東和町(2005年の合併で二本松市)だ。谷間の道をさらにのぼった標高300メートルの布沢という集落を3月末に訪ねると、安達太良山を望む斜面に梅と桃の花が咲き乱れていた。
春の里山は、ワラビやゼンマイ、コゴミ、コシアブラ……がいっせいに芽吹く。新芽の苦みは「命をいただく」ものだった。
「震災前はねぇ、4月5月は多くの人が山歩きをしてワラビなどの山菜を採ってきて直売所にもっていった。それがばあちゃんの生きがいだったんだ」
有機農業を営む菅野正寿さん(1958年生まれ)は話す。
合併前の旧東和町は有機農法で有名だった。
原発事故で放射能が降りそそぎ、「安全安心」を掲げてきた農業は存亡の危機に立たされた。須賀川市では有機農業の野菜農家が「福島の野菜はもうだめだ」と言い残して自死していた。
東和地区では、農業をつづけられないのではないか、という瀬戸際の生産者の会議で「命を絶った農家の悔しさと無念に耕すことでこたえよう」「耕して種をまこう。出荷制限されたら、損害賠償を請求しよう」と営農継続で意思統一し、例年どおり苗床をつくって田植えをして、米や野菜にふくまれる放射能を自主的に測定して安全性を確認する体制をつくりあげた。
その結果、道の駅「ふくしま東和」の売り上げは震災から3年後にはV字回復を果たした。
二本松市役所に持ちこまれる食品の放射性物質測定では、野菜からはほぼ検出されなくなった。だが除染されていない山で採れる山菜やキノコからは2020年になってもセシウムが出ている。山菜のコシアブラは1キログラムあたり1400ベクレル、熊肉では1万ベクレルを超える例もあった。二本松市で2021年3月に開かれた「東日本大震災・原発事故から10年 原発ゼロの社会をめざすシンポジウム」では、幼稚園児のお母さんのこんな声が紹介された。
「おじーちゃんがタケノコを取ってきて、おばあちゃんがおいしく料理しちゃうんです。夫と私は、子どもが食べてしまわないように、バカみたいなものすごいスピードで食べるんです」
祖父母も父母も子どものことを大切に思っているのに傷つけ合ってしまう。
原発事故は春の「山歩き」の楽しみを奪い去ってしまった。道の駅の売り場にはおいしそうな野菜がならぶが、山菜はほとんど見かけない。
「このままではワラビやタケノコのあく抜きの方法なども伝わらなくなってしまう。暮らしがもどっだだけでは『復興』とは言えません」
そう菅野さんは話す。
ワラビも食える
菅野さんが営む農家民宿「遊雲の里」の食卓には手作りの野菜がずらりとならぶ。布沢の米でつくった純米酒はやわらかな飲み口だ。平飼いの鶏が産んだ1個50円の生卵は黄身がしっかりしていて軽く箸で突く程度では崩れない。地元の大豆でつくった納豆は豆の香りがよくわかる。
なによりおいしいのが、この時期にしか食べられないフキノトウのてんぷらと酢漬け、ふき味噌だった。畑のわきの土手で採れた。もちろんセシウムが含まれないこともチェック済みだ。
「山菜はダメだ」ではなく、どうすればあつかえるか試しつづけている。5年前からは畑でつくる「栽培わらび」にもとりくみはじめた。
さらに、飯舘村で放射能汚染を測定しつづけている伊藤延由さんによって、コシアブラ以外の大半の山菜は、塩に漬けたり、重曹であくを抜くことによってセシウムが消えることがわかってきた。
震災前から飯舘村に住み、放射能汚染を測定しつづけている伊藤延由さんは、山菜をとりつづける村のおばあさんの声に驚いた。
「塩漬けにすれば(放射能は)抜けるんだぞ」
「セシウムは無理だよ」
そう反論したが、みずからワラビを塩漬けや重曹であく抜きをしてみると、みごとにセシウムが消えた。ワラビだけではない。ハチクもウドもコゴミも……コシアブラ以外の大半の山菜はセシウムが抜けた。キノコも同様だが、香りを楽しむマツタケなどは、セシウムだけでなく香りも抜けてしまった。
一般食品に含まれる放射性物質が1キログラムあたり100ベクレルを超えたら出荷できない。この基準値をゆるめる動きが自民党から出ている。それについて「東日本大震災・原発事故から10年」のシンポジウムで問われた獨協医科大の木村真三准教授は次のように指摘した。
「チェルノブイリでは事故から10年20年たてば基準を厳しくしてきた。出荷業者がかわいそうだから基準値をゆるめましょうなんて、いつからあなた方は科学者になったんですか? と(政治家に)問いたい。ワラビなどはあく抜きをした後で測るようにすれば基準を変えなくても出荷できます」
私は以前に住んでいた石川県の珍味、フグの卵巣の糠漬けを思い出した。猛毒がある卵巣を塩水と糠に2年ほど漬けると毒が消えてしまう。先祖代々伝えられてきた伝統的な加工法はフグの毒のみならず放射能まで除去できる可能性があるのだ。
来年か再来年の春には、じいちゃん、ばあちゃんが「山歩き」で採ってきたワラビやゼンマイが東和の農家の食卓にもどってくるかもしれない。
「遊雲の里」のフキノトウのレシピ
フキノトウ酢漬け
・フキノトウは切らずにさっとゆでる。
・酢と砂糖を、フキノトウがひたるぐらいまで加える(砂糖と酢はほぼ同量)。
ふき味噌
・フキノトウ5個程度を刻んで、あくが出やすいから油をひいてすぐに炒める。炒めると緑がきれいになる。
・味噌(大さじ1)、砂糖(大さじ1.5)をまぜたらできあがり。(つづく)