京都で弁護士とマスコミの交流会に参加したあと、セージに二次会にさそわれた。
「ボヘミアン物語のフジーがくるのを心待ちにしている祇園のスナックがあるんや」
祇園のスナック、といえば「すわって1万円」だ。
朝日新聞京都支局にいた20代後半のころは、バブルの余韻もあって女の子のいる店でしばしば散財したが、プータローになった今はもう手がとどく世界ではない。
「もったいないからやめとくわ」と言うと、
「おごるから!」
セージがめずらしく強弁する。
海亀のような形と色のずんぐりしたタクシーの後部座席にのせられた。
そういえば、セージがモデルではないかと噂された「かりゆし弁護士」という漫画では、祇園のスナック「やんばる」が登場する。
http://www.reizaru.sakura.ne.jp/saru/?p=9750
主人公の安田誠弁護士は、国仲涼子にそっくりのママにいれあげて、莫大な請求書が事務所にとどくたびに事務員さんにどやされていた。
「きょういくところは『やんばる』のモデルになった店とはちゃう。別の店や」とセージ。
「かりゆし弁護士」の作者は、祇園のスナックなど行ったことがない。だから「やんばる」にモデルはないはずなのだが、セージ先生の頭のなかでは現実と漫画の世界が交錯して、美人ママの「やんばる」は実在しているようだ。
祇園の花見小路でタクシーをおりて、暗がりの路地にある小さな雑居ビルにはいる。昭和っぽいガタピシと音をたてるエレベーターで6階へ。
「木曜日」だか「火曜日」だかわすれたが、不思議な名前の店のとびらをあけると、美女3人が小走りででてきた。
「いらっしゃいませ。お待ちしてましたー!」
「キャー、ホンモノだぁ!」
「ボヘミアンの作家さんにあえると思わなかったー!」
「夢みたい!」
なんなんだこのハイテンションは……。
お得意さまのセージ先生が登場する本だから、営業トークでヨイショしているのだろう。女性におだてられるとのぼせあがるセージの性格をよくわかってらっしゃる。
トイレにはいるとミイラ男の表紙の本がおいてある。用を足しながら読めというのだろうか。たしかに下ネタ満載の「ボヘミアン物語」はトイレとの親和性は高い。
2人の女性と、京大生のアルバイトのヤマダくんの3人が「ボヘミアン物語」をもってきて
「サインしてください!」
ここまで徹底した営業トークははじめてだ。
表紙をめくるとそこにはすでに芸能人のような達筆の署名がある。セージのサインだ。書家にお金をはらって書いてもらい、何度も何度も練習を重ねたのだという。涙ぐましい努力はさすがナルシストだ。
「作家先生」「作家先生」と美女ふたりにのせられて悪い気はしない。
「もう先生ったら!」とか肩をツンツンとつつかれる。
祇園の高級店は大阪のキャバクラのように「私もなにかたのんでいい?」などとベタベタとしなだれかかってきたりはしない。指1本でふれるだけで、男たちをドキドキさせてしまうのだ。もちろんオレも。
ハイボールで酔いがまわってくると、祇園中のスナックで「京都大学ボヘミアン物語」が読まれ、100万部の大ベストセラーになったような気になってきた(実際は1000部売れたかどうか……)。
同時に、セージ先生のサインの隣にしるした小学生の落書きのような「藤井」の文字がやけにみじめにみえてきた。おれも書家に書いてもらおうかなあ……。
異次元空間にいるようで、感覚がくるってくる。
美女ふたりは竜宮城の乙姫さまみたい。先代乙姫さまの「お母さん」(創業者)がたまに奥から顔をだし、おれの顔をしげしげとながめ、
「お顔の表情がすばらしい……」
占い師のようにありがたいオコトバをさずけてくれる。
「あ、京阪の終電23時やから、オレ、さきに帰るわ」
ふと我にかえって口にすると、みんなが不思議そうな笑みをうかべた。
時計を見たら……午前3時前。
翌朝、気がつくと見知らぬ家の台所で、寝袋を腹の上にかけてねていた。そーだ、ここはセージの家だ。
洗面所にいくと、鏡のなかに赤ら顔で無精髭の男がいる。書家に本格的サインをつくってもらおうと考えていた「大作家先生」はどこに行ったのだろう。ひと晩で10年老けこんだ気分だ。
玉手箱をあけて老人になった浦島太郎って、きっとこんな気分だったんやわ。
ゆうべの店の名はおぼえてない。ひとりでは二度とたどりつけないだろう。
あの店は竜宮城だったんだ、きっと。