歴史をうごかした3種の石
二上山は千数百万年前は火山だった。火山活動によってできあがったサヌカイトと金剛砂、凝灰岩という3つの石は歴史と深くかかわってきた。
安山岩の一種のサヌカイトはガラス質で、たたくと金属のような音がする。割ると二枚貝の貝殻状に割れて鋭利な刃ができるから、旧石器時代から弥生時代にかけて石器につかわれた。
金剛砂(ざくろ石=ガーネット)は鉄分が多く硬いため、奈良時代以来研磨剤として利用された。明治末期になると研磨布紙(サンドペーパー)の製造がはじまり、戦時中は軍需物資として増産された。戦後しばらくして、外国産の輸入と公害問題がかさなって採掘は終わった。香芝市二上山博物館ではそんな経緯を紹介している。
凝灰岩で古石棺、礎石、燈籠…
2023年7月、凝灰岩と古代史の関係を知りたくて1カ月ぶりに二上山にのぼった。
雌岳から南側の鞍部・岩屋峠におり、そこから西の大阪側に5分ほどくだると、森のなかにそびえる巨大な岩壁に石窟がうがたれていた。
間口7m、奥行き5m、高さ6mの石窟のまんなかに、高さ1.4メートルの三層の石塔がある。わきには石仏がならんでいる。石窟の天井には垂木などをさした穴があり、堂舎があったことがわかる。石切場跡を利用した寺院だったらしい。
そこから3分ほどくだった森には「石切場跡」がある。石を切る際のノミの跡がのこっている。
凝灰岩は耐火性にすぐれ、加工が容易で、重量が軽いという特徴があり、古墳時代の石棺や、飛鳥・奈良時代の寺院や宮殿の礎石、平安以降は燈籠や五輪塔に利用された。この石切場の岩は、高松塚古墳やマルコ山古墳の横穴式石槨につかわれた。
山道を20分ほどくだって、峠の車道にでる直前から10分ほどのぼりかえしたやせ尾根に高さ1.5mほどの紡錘形の石塔がある。そこから100メートルほどの開けた尾根が鹿谷(ろくたん)寺跡だ。
高さ約5メートルの十三重塔は地山の凝灰岩を彫り残してつくられた。石窟の壁面には三尊坐像が彫刻されている。
岩屋も鹿谷寺も奈良時代(8世紀)のものだ。遣唐使か留学僧、あるいは渡来人が、中国の竜門石窟などの石窟寺院を模してつくったと考えられている。
最古の国道は外交と葬送の道
鹿谷寺の直下には、奈良盆地の飛鳥から河内にいたる竹内街道がとおっている。
竹内街道・横大路は推古天皇の613年に、外交の玄関口の難波津と政治の中心の飛鳥をむすぶ延長40キロの「大道」として整備された最古の国道だ。「難波より京に至る大道を置く」と日本書紀にもしるされている。外交の道であるとともに、大陸の先進文化をつたえる道だった。
二上山の南側の峠から河内平野にむけて竹内街道をくだる。飛鳥時代は、磯長谷(しながたに)古墳群を形成する墳墓が水田と畑のなかに点在していたはずだ。太子町立竹内街道歴史資料館のちょっと先に孝徳天皇陵。さらに20分ほど歩くと太子町役場をすぎて叡福寺にいたる。
「太子宗」の本山であり、丘陵の斜面に聖徳太子の墳墓がある。直径50メートルほどの円墳で、切石をもちいた横穴式石室があり、太子の2カ月前に死んだ母と、太子の前日に亡くなった妻が合葬されているとされ、「三骨一廟」とよばれる。
ただ、「聖徳太子は実在しない」という説が最近は有力だ。
「聖徳太子」が登場する最初の史料は死後1世紀の「日本書紀」だが、彼の存命時は「天皇」「皇太子」の呼称はなかった。「聖徳太子」のモデルになった「厩戸王」はいたが、「憲法十七条」も「冠位十二階」も「遣隋使」も、彼が関与したという証拠はない。だから教科書も「厩戸王(聖徳太子)」と表記するようになっている。
聖徳太子の実在はともかく、有力な王族がいたのはたしかだ。
周辺には敏達・用明・推古の天皇陵もあり、天皇たちと太子の5つの御陵をあわせて「梅鉢御陵」とよばれている。
磯長谷で最初にできた天皇陵の敏達陵は、この古墳群で唯一の前方後円墳で、埴輪列を有する最後の天皇陵という。
敏達天皇の時代、仏教をめぐって蘇我馬子と物部守屋があらそい、敏達は廃仏派だった。次の用明天皇は仏教派の蘇我氏についた。仏教をめぐる立場のちがいが、墳墓の形や埴輪のちがいにあらわれているらしい。
ともあれ、この地区は古代の大王たちの葬送の地「王陵の谷」だったのだ。
ところが、それぞれの天皇の没年を知って「古代の葬送の地」というのも思いこみかもしれないと気づかされた。
「西方浄土」はわずか70年間
第30代の敏達天皇が死んだのは585年、31代用明は587年、32代崇峻は592年(蘇我氏による暗殺)、聖徳太子は622年、33代推古は628年、36代孝徳は654年だ。ちなみに敏達・用明・崇峻・推古はきょうだいで、推古は敏達の異母妹であり妻でもある。
前回の紀行文で二上山の西を「西方浄土」とみていたのではないかと書いたが、この地に天皇たちが葬られたのは、わずか70年間にすぎない。
敏達の前の29代欽明の陵墓は奈良県明日香村にあり、34代舒明は奈良県桜井市、35代斉明は奈良県高取町に葬られている。36代孝徳がこの地に葬られたのは、大化改新後に遷都した難波で没したからだろう。
二上山の西麓に葬るのは「古代の葬送の地」としての伝統なのではなく、飛鳥時代前期だけの特殊なできごとだったのだ。
いくつか本をしらべたけれど、なぜこの70年間だけ、二上山の西麓が墳墓の地になったのか、納得できる説明は見つからなかった。(終わり)