野見宿禰と大和出雲 日本相撲史の源流を探る<池田雅雄著、池田雅之・谷口公逸編>

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■彩流社250217
 奈良県桜井市の出雲地区には、かつて相撲の開祖・野見宿禰の墓とされる塚があった。その塚の五輪塔が集落の十二柱神社に移されていて、北側の山の尾根付近のダンノダイラには出雲族の信仰拠点だった磐座がある。
 なぜ出雲国出身といわれる野見宿禰の「墓」や出雲の信仰の拠点があるのか。筆者は戦前から1980年代にかけて調べてきた。
 その結果、島根の出雲と関係なく、もともと大和に「出雲」があり、野見宿禰はこの地に住んでいたと筆者は考える。
 根拠のひとつは、野見宿禰が当麻蹶速とたたかうために、出雲から「その日のうちにやって来た」という日本書紀の記述だ。島根の出雲ならば1日では到着できないからだ。
 ただ、「出雲地方は5,6世紀以後に繁栄するから、宿禰が活躍した垂仁朝の4世紀前半には、先進国でもない島根から宿禰や土師部をよぶようなことはあり得ない」という筆者の主張は1984年の荒神谷遺跡の発見によって説得力を失った。
 野見宿禰は、当麻蹶速に勝ったことで蹶速の土地をあたえられた。垂仁天皇の皇后が死んだ際、殉死を憂慮する天皇の思いをうけて、出雲から300人の職人をよんで人や馬などの形をつくり、殉死のかわりに陵墓に埋めた。つまり埴輪を発明したとされる。
 帰化人がもたらした須恵器によって、弥生土器の製造法の土師器は衰退し、宿禰の子孫である土師氏は土器製造はやめて宮廷の葬儀をになうようになる。葬儀屋の代名詞のように思われるのを忌み嫌い、天応元年(781)、居住地の「菅原」の名をとって改名した。その子孫が菅原道真だ。(埴輪の発明という説は、大和地方の古墳から人形埴輪が発掘されないため否定されている)
 出雲村の十二柱神社にある野見宿禰由来の石塔は鎌倉期につくられ、重さ1000貫(3750キロ)余、高さ2.85メートルもある。
 かつては300メートル南の初瀬川対岸の「宿禰塚」の上におかれていた。江戸時代、江戸相撲や京阪相撲が伊勢街道を通過する際はかならず宿禰塚を参拝していた。力士一行の周囲に村人や旅人が群がり、周囲の畑地が踏み荒らされた。業を煮やした畑主は、五輪塔を十二柱神社に移したあと古墳を掘り崩し、大石を打ち砕いて畦道につかい、板状の大石は住宅の庭石や記念碑に転用した。
 1883(明治16)年に中心部を発掘、1920(大正9)年にいたって、古墳の土はすべて撤去され畑になった。五輪塔は1887年に神社の手洗石の場所に移し、昭和30年に現在の場所に移転した。(十二柱神社の狛犬は文久元年の作で、狛犬を支える四柱は力士がふんばっている姿)
 筆者が取材した古老が子供のころは、墳丘の型は残っていて、塚の上で五輪塔は玉垣に囲まれており「野見宿禰の墓」と記した標木がたっていた。周辺からは青銅の直刀、土器、金環、勾玉が出土した。
 出雲村では戦前まで相撲が盛んで、近隣では「出雲の人は宿禰の村だけに、その血筋は争えない」という評判をとっていた。

 出雲村から北側の山にのぼっていくと、標高450メートルの尾根近くに「ダンノダイラ」という広々とした原っぱがあり、水路や田畑の跡を確認できた。明治の中頃までは、秋祭りには近郷の村人弁当をもってのぼり、相撲大会を開いた。その東の端にある磐座をみんなで拝んだ。十二柱神社は、大昔は神殿はなくこのの磐座を拝んでいた。

 出雲地区の人々のルーツは島根ではないとしたらどこなのか。
 大和高原には、8000年から9000年前の遺跡があり、そこにいた縄文人たちが山のふもとへおりてきたと筆者は推測する。大和高原の都祁村(奈良市)の村社には、スサノオが八岐大蛇を退治する絵馬が掲げてあり、住民たちは「出雲神話の八岐大蛇退治はこの地でおこなわれた」「スサノオノミコトが高天原から降ってきたのは、都祁にあるあの神野山ですよ」「大三輪神社の奥の院は、大昔この村にあった」と話したという。
 1984年、島根県荒神谷で358本の銅剣が発掘され、85年に銅矛9本と銅鐸6個が発掘された。さらに筆者の没後だが、1996年に加茂岩倉遺跡から日本最多の銅鐸39個が出土した。
 弥生時代の日本列島は、九州を中心とする「銅剣・銅矛文化圏」と畿内中心のある「銅鐸文化圏」の2つの文化が対立しているというのが定説だった。出雲の発掘は古代史をぬりかえるものだった。
 出雲の国造家の神賀詞のなかに、国ゆずりで大名持命が大和へ移住する際、自分と3人の子の魂を大和の4カ所に鎮めたとある。出雲から神々が大和へきたことを示唆している。
 大和出雲村と島根県出雲は、筆者が想像する以上に関係があったと考えたほうがよいのだろう。
 出雲村に伝わる出雲人形は、長谷寺参りの人たちが手土産に購入した。明治の末までは、参詣客を相手に「唐辛子」「出雲人形」を名物として売る店がならんでいた。裏山に登り窯を築いて、何千という人形を大量に焼いた。だが昭和4年に近鉄電車が通ると斜陽化し、1887年生まれの水野徳造さんだけになった(1973年に死去し、7代目水野佳珠さんが継いだ)。ただ、この出雲人形は伏見人形をまねてできたと考えられ、江戸時代より前にはさかのぼれず、埴輪を結びつけるのはできないという。

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