2024年に王子の「飛鳥山博物館」を見学して、旧荒川(隅田川)の洪水で下町が幾度も水没していたため、海まで延長22キロの「荒川放水路」を建設したという歴史を知った。
2025年3月、隅田川と荒川(放水路)の分岐点を訪ねることにした。

地下鉄南北線赤羽岩淵駅から北にむかって歩くと、古い銭湯の煙突が、昭和の雰囲気をかもしだしている。その町内の「八雲神社」は広々とした境内に梅の花が咲き、スズメがさえずっている。祭りは江戸囃子がひびきわたるのだろう。勝海舟が荒川で悪天候のために足止めされた際に書いた大幟の旗を保有しているらしい。

境内の片隅に「水神社」の祠がある。舟運業者の信仰をあつめていたが、1935(昭和10)年にこの地に遷座した。放水路工事によるものだろうか。

神社のすぐ先の土手をのぼると新河岸川だ。白い鳥(ユリカモメ?)が橋の欄干に横並びになっている。さらに大きな堤防をのぼると荒川が目の前にひろがる。


上流を見ると赤い水門がある。これが旧岩淵水門(赤水門)、その300メートル下流に青い水門がある。これが現役の岩淵水門だ。

赤水門は、放水路と隅田川にわかれる地点に、1916(大正5)年から24(大正13)年にかけて建設された。幅9メートルの5つの門扉があり、全長は103メートル。レンガが主流だった時代、最先端だった鉄筋コンクリート造りだった。戦後の地盤沈下に対応するため門扉が継ぎ足された。2024年には国の重要文化財になった。2代目の青水門は、1975(昭和50)年に着工し82(昭和57)年に完成した。

赤水門の目の前には「荒川の洪水記録」という柱がたてられている。
1位は1947年のカスリン台風で8.6メートル。最近では2019年の台風で7.17メートル。ちなみに堤防の高さは12.5メートルある。
岩淵水門によって、隅田川の水量をコントロールし、ふだんは荒川の水の3割を流し、洪水時は水門をとじて東京の洪水をふせいできた。
旧荒川(隅田川)は川幅が狭くて堤防も低く、江戸時代から洪水が頻発していた。
とりわけ1910(明治43)年8月の大洪水は、岩淵で水位8.2メートルを記録し、東京の下町は泥の海と化した。浸水家屋は27万戸、被災者は150万人、死者369人を数えた(利根川を含む)。
これをきっかけに翌1911年から「放水路」に着工する。1930(昭和5)年まで約20年かけて22キロの放水路がつくられた。
この工事とパナマ運河との関係は今回はじめて知った。
パナマ運河は、荒川放水路に先だつ19044年に着工し14年まで10年かけて延長80キロが完成した。世紀の大工事だった。この工事に日本人の青山士(あきら)が7年半にわたって従事し、ガツン閘門の側壁を設計・施工した。その技術が荒川放水路に生かされたという。

赤水門をわたった位置からは、放水路と隅田川の分岐点と、高さ33~4メートルの青水門が望める。この水門が隅田川の入口であり、下町を洪水から守っているのだ
この分岐点になぜか「草刈の碑」が立っている。金肥ばかりではなく、地元の草を活用する農業を大切にしようと。全日本草刈選手権が1938(昭和13)年8月から6年間開催され、毎回4万人以上が2時間にわたって草刈りを競った。戦争で中止されたが、碑は昭和32年にたてられた。

「荒川知水資料館」は荒川の治水の歴史がわかりやすく紹介されている。
水門で安全性が高まることで下町は人口が集中し、地下水を汲みあげ、地盤沈下が進んだ。川は街より高い位置を流れ、海より低い場所に街がひろがっている。それらの街を守るために高規格堤防やダムが整備され……という都市開発の歴史はどうにもやるせなく思えた。