3座の神様をまつり3人の神主家をもつ神社
さいたま市の実家の近所、ぼくらの遊び場だった氷川神社は、平安時代の811年創建とされ、室町時代から現代にいたるまで「石井家」が神主を世襲している。
「氷川神社」は、埼玉と東京を中心に約250社(280社という説も)が分布している。
その親分が、大宮駅近くにある武蔵一宮の氷川神社だ。「大宮」の名も、「大いなる宮居」に由来する。
縁起書によると2000年前の創建とされ、はじめて記録にあらわれるのは奈良時代の766年だ。
明治になるまでは、社格が同格な3主座・3神主制だった。
現在の氷川神社の位置にある男躰宮が須佐之男命(すさのおのみこと)をまつり、岩井家が神主をつとめた。3キロ南東の簸王子宮(現在の中山神社=中氷川神社、さいたま市見沼区)は大己貴命(おおなむちのみこと)をまつり、神主は角井出雲家(西角井家)。さらに3キロ東南東の女躰宮(氷川女體神社=緑区宮本2丁目)は稲田姫命(いなだひめのみこと)をまつり、神主は角井駿河家(東角井家)だった。
巨大な沼をまもる水と農耕の神
縁起書では、出雲国の簸川(斐伊川)の川上にある杵築大社(出雲大社)を勧請したことから、ヒイ川の名をとって氷川神社としたとつたえられているが、大宮市史では異説をとる。
男躰宮がある高鼻は、見沼という沼につきでた大宮台地上にあり、現在の神池(ボート池)は入り江で、泉が湧出する水源になっていた。そのため神聖な泉を意味するヒカワが社名となったのであり、水源や農耕の神だったとみる。
現在の神池の奥、神殿と駐車場のあいだに巨樹が林立している。そのなかに泉がわいている。
さらに奥には湧き水がたまった小さな「蛇の池」がある。神域として立ち入り禁止になっている。
こんな町中のたんなる平地になぜあちこち水が湧くのか不思議だ。
蛇は水神の化身であり、氷川神社の祭神の須佐之男命は大蛇(八岐大蛇)を退治した伝承によって水をおさめる神とされる。この伝説にちなんで「蛇の池」と名づけられたらしい。
蛇の池の湧き水は神池にながれこみ、見沼の水源のひとつだった。この池こそが氷川神社の本来の御神体なのだ。
見沼は、江戸時代には農業用水源の「見沼溜井」とされて周囲40キロにおよんだ。氷川神社を構成する3つの社は水辺の高台に鎮座していた。江戸時代の見沼の地図をみると、沼をかいして3つのお宮がむすびついていたことがよくわかる。
18世紀の徳川吉宗の時代、見沼溜井を干拓し、代替水源として利根川から「見沼代用水」をひくことで沼は農地にかわった。
出雲人の子孫が各地に氷川神社をまつる
ではなぜ、氷川神社と出雲とのつながりがでてくるのか。
「史話随想 大宮むかしといま」(1978年)の著者、蓮見健次郎氏は大正時代、氷川神社の足立達宮司による郷土史の講演をきいた。
それによると、大宮にはかつて武蔵国府があって国造が政事をおこなった。国造は主に出雲朝廷の官吏が2年か3年ごとに赴任した。赴任のたびに出雲の人をつれてきて大宮地方の開発に従事させた。土着した出雲人の子孫がさかえて、各村々に氷川神社を氏神としてまつった……。
もしかしたらそんなつながりがあったのかもしれない。
ぼくらの遊び場だった氷川神社がある大字は「島根」だ。もしかして出雲と関係があるのではないかとおもってしらべたが、残念ながら無関係だった。
明治の文革で独自性をうしなう
明治新政府は1868年(慶応4年=10月23日から明治元年)3月から神仏分離をすすめ。神社にいる別当や社僧の還俗をもとめた。
4月20日、岩倉卿一行が、大宮宿にとまることになった。「武蔵一宮 氷川大明神 本地聖観音」という石標を、神仏混淆であり官軍の触に反すると撤去をきめたが、このときは境内にある観音寺の反対もあり、強制撤去にはいたらなかった。だが、6月には官軍から観音寺についての問い合わせがあり、10月には観音寺住職は神社から退去した。氷川神社は、1寺4カ院が同居する神仏習合の神社だったが、仏教色は一掃された。
10月28日には即位直後の明治天皇が行幸することになった。明治政府の神祇官は、社格が同格な3つのお宮が鼎立する形をきらった。
命令により、本社は男躰宮、祭神は須佐之男命とされ、ほかの2社は摂社・末社に格下げされた。また岩井家を神主とし、東角井・西角井の両家は格下の祢宜(ねぎ)とされた。
さらに、伊勢神宮を頂点として、全国97社を国家が祭祀する官国幣社、各府県に府県社、さらに郷社・村社、それ以外は無格社とするピラミッド型の組織がつくられ、官幣大社の氷川神社は政府直轄におかれた。
「神社は国家の宗祀で、一人一家が私有すべきものではない」との理由で、3つの神主の血筋は排除され、官選の神官が神主に任命されるようになった。
1000年以上つづいた氷川神社の伝統は明治の文化大革命によって破壊されたのだった。
氏子の運動で地元宮司を復活
ところが戦後、氏子たちが中央集権体制に反旗をひるがえす。
戦前の1931年から宮司をつとめる有賀忠義氏は役人タイプで人気がなかった。
氏子たちは、明治以前の氷川神社の姿にもどすため、本来の宮司たる西角井、東角井両家から宮司をだそうと運動を展開し、要望書を提出した。
「地元に現職の東角井権宮司、國學院教授西角井慶氏はじめ十一社家の人たちがおりながらほかの宮司をよぶとはもってのほかだ」
「後任者を地元から選ぶことを要望する。そうでない場合はその経過を発表してもらいたい。その結果によっては今後神社の行事には一切協力しない」
有賀宮司は「まだやめるつもりはない」と当初はつっぱねたが、1959年に77歳で辞任し、後任には同神社の東角井・権宮司(49歳)が昇格した。
古代の中央政府にあらがった出雲王国の民の反骨心が、氷川神社の氏子たちもうけついでいたのかもしれない。