熊野の森にころがるこけ蒸した「大地の卵」
熊野古道中辺路の「雲取越え」(和歌山県)は、那智の滝のある那智大社から2日間かけて山の尾根をたどって本宮大社にむかう山道だ。江戸時代には、伊勢参りのあとに西国三十三所を歩く巡礼が、那智大社の隣の西国一番札所、青岸渡寺(せいがんとじ)からこの道をたどり、二番札所の紀三井寺(和歌山市)をめざした。
2015年秋、小雨にけぶる青岸渡寺を参拝してこの道にはいった。尾根をたどる急坂に石段と石畳が延々とつづく。中辺路の最難所である雲取越えには、雨で土がながれないように石畳が昔から整備されているのだ。
晴れていれば太平洋をみわたせる舟見峠や、死者の霊にあえる「亡者の出会い」をへて谷にくだると、不思議な光景にでくわした。鮮やかなコケにおおわれた丸石が、霧がたなびく森のあちこちにころがっている。
林道の法面(のりめん)にも直径1メートル以上の丸石がいくつも突出している。大地が卵をうみおとそうとしているようだ。
太古のマグマの活動でできた酸性火成岩が、タマネギの皮をむくように外側からはがれ、中心部がのこったもので、「玉ねぎ状風化」というらしい。
この丸石にかかわる具体的な伝説はみつからなかったが、専門家はこう説明してくれた。
「神倉神社(新宮市)の『ゴトビキ岩』など、火成岩の巨岩は信仰対象になってきた。丸石も、魂がやどって新しい生命がうまれる印象があり、山の霊力で魂を再生する山伏の修行につながるものをかんじます」
母乳もたらす「ちちさま」 地震おさめる「要石」
信仰との関係を意識しながらあるくと、南紀のあちこちで丸石にであった。
熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の旧社地ちかくの谷間に乳子大師(ちごだいし)という石仏がある。その上の岩壁に 張りのあるゆたかな乳房をおもわせる直径40センチほどの2つの丸石「ちちさま」がつきでていた。乳がでない婦人がいのると乳がでるようになるそうだ。
みなべ町沖の無人島・鹿島をカヌーでたずねると、石碑の上に大人の肩幅ほどの丸石「要石」があった。1911年に海からひきあげられたという。島の地下には地震の神様がいるが、要石が猛威を封じるからみなべの町は地震や津波の被害がすくないとされてきた。
四国の遍路道やコスタリカでも
2020年には四国の遍路道を40日間かけてたどった。愛媛県西予市宇和町の鳥坂峠の森に日天社という自然石でかこわれたこわれかけの小祠があり、日天月天(にってんがってん)という、梵字がきざまれた半球状の石がまつられていた。太陽と月の信仰だった。
沖縄県の久米島のウティダ石(太陽石)は、日の出の位置の移動によって季節の移りかわりをとらえるため500年前に利用された農事暦だった。
全国各地の神社の「力石」に丸石がおおいのも、古い時代の信仰とかかわりがあるのかもしれない。熊野古道沿いの田中神社(上富田町岡)の丸石は真球にちかい。
四国の79番札所と並立する白峰宮(坂出市)には四角いものもふくめて5つの力石がならんでいた。
2017年には、中米コスタリカの国立博物館で巨大な丸石(石球)にであった。
1930年代から現在にかけてジャングルのなかで200個以上発見されている。最大のものは直径2.6メートルもあり、正確な球形に加工されている。その多くが、西暦300年から1500年ごろまでつづいた遺跡でみつかり、「ディキスの石球のある先コロンブス期首長制集落群」の名で2014年に世界遺産(文化遺産)に登録された。石球の使途は不明だが、石器時代の先住民族の祭祀と関係があるのだろう。
日本最大の丸石王国は果樹王国
だが、日本でもっとも丸石が多いのは山梨県だ。文化人類学者の中沢新一の父、中沢厚がしるした「石にやどるもの―甲斐の石神と石仏」(1988年)によると、甲府盆地周辺では約700カ所で「道祖神」として丸石をまつっているという。
2022年夏、ようやく現地をたずねる機会をえた。700カ所もあるなら、適当にあるけばあたるはずだ。とりあえず笛吹市にある山梨県立博物館をめざした。
東京から普通列車をのりついで、果樹園がひろがる勝沼を通過する。子供のころ何度もブドウ狩りにきたのをおもいだす。「峡東地域の扇状地に適応した果樹農業システム」は2022年7月、世界農業遺産(GIAHS)に認定された。
平安時代からつづく、日本のブドウ栽培発祥地とされる。モモやスモモ、カキをふくめた果樹の産地として江戸時代からしられていた。ただ、今のように果樹一色になったのは高度経済成長以降だ。養蚕が衰退し、1960年代から70年代半ばにかけて桑畑がいっせいに果樹園に転換された。
道をあるけば丸石にあたる
電車は勝沼から広大な甲府盆地にむかって一気にくだり、石和温泉駅についた。
石和温泉は戦後誕生したあたらしい温泉街だ。1961年に温泉を掘削した際、湯がちかくの川にながれだし、露天風呂がつくられて「青空温泉」と報じられたのをきっかけに有名になり、団体客むけの歓楽温泉として発展した。
駅から3キロ南の博物館にむけてあるきはじめて10分、石和八幡宮の鳥居のわきにさっそく丸石があった。土台には「道祖神」ときざまれている。
雄大な笛吹川をわたった笛吹高校わきの路地でも丸石とでくわした。
そして県立博物館の中庭には甲府市にまつられていた、真球にちかい丸石がおかれていた。博物館見学後、甲府の中心街を30分ほど散歩したら、甲斐奈神社の小さな社のなかにも丸石があった。わずか3時間の散歩で4つの丸石に遭遇した。
山梨の丸石はほぼすべて「道祖神」だ。道祖神は、集落に悪いものがはいらないように守る神で、道のまじわるところや集落の境界にまつられることがおおい。
道祖神場では1月14、15日の小正月に道祖神祭がもよおされ、正月の門松、ササ竹、しめ飾りなどをもやしている。
起源は中部山岳地方の縄文権力?
丸石信仰はいつはじまったのか。
文献では平安時代中期にえがかれた「信貴山縁起絵巻」に登場するが、縄文時代の遺跡から石棒神とともに出土している。
中部山岳地帯には、文化度の高い集団があり、かれらのなかで丸石信仰が発生した。その後、列島の西の強大な権力に席巻されて中部山岳地方の勢力がおとろえたが、丸石信仰はのこった……と、前掲の本で中沢氏は推測する。
民俗学者の五来重によると、石棒をシンボルとする信仰は縄文時代からあった。はじめは石棒(丸石もふくむ)をたてて道祖神や塞の神としておがんでいたが、仏像の影響で神像がつくられ、さらに仏教化すると地蔵菩薩立像になった。だから地蔵石仏になっても道祖神と同様、道の辻や村の入口にたてられた。「地蔵盆」は、日本人のもっていた道祖神信仰とそのまつり方を地蔵信仰にかえたものだという。
男根・女根という石の造形はもとは祖先のシンボルだったが、しだいに性的な興味とむすびつき、明治維新の「淫祠邪教の禁」によって多くの石棒が撤去された。
丸石は男根を連想させないから明治の宗教弾圧をいきのこったのかもしれない。
この日はもうひとつ、昔から気になっていた石仏と対面するため、長野県の下諏訪にむかうことにした。(つづく)