出雲系だが、自然信仰が色濃くのこる
夕方、下諏訪駅に下車して、諏訪大社下社を参拝した。
諏訪大社は、諏訪湖の南にある上社の本宮と前宮、湖の北側にある下社の春宮と秋宮の2社4宮で構成されている。
祭神は、出雲大社にまつられている大国主命(おおくにぬしのみこと)の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妻の八坂刀売神(やさかとめのかみ)とされ、大国主命が天照大神へ国をゆずることに反対した建御名方神が、天照大神が差し向けた建御雷神(たけみかづちのかみ)と力くらべをしてやぶれ、諏訪の地にとどまったとつたえられている。出雲系らしく、神楽殿には出雲大社のように巨大な注連縄がかざられている。
ただ、4つの宮ともに本殿はなく、上社の2宮は山を神体とし、下社の春宮はスギの古木、秋宮はイチイの古木を神木としている。古い自然信仰の形をのこしている。
下社の神様は、8月1日に春宮から秋宮へうつり、2月1日に秋宮から春宮へうつるという。
江戸から甲斐をとおる甲州街道と、碓氷峠をへて南下してくる中山道が下諏訪で合流する。春宮と秋宮のあいだの約1キロは旧中山道で、今も温泉旅館や古い商家風の屋敷がならぶ。
春宮と秋宮はつくりは双子のようにそっくりだ。それぞれの社殿の四隅には、巨木な柱がたっている。諏訪大社の4つのお宮では、6年に1度、寅と申の年の「御柱祭」で、山から計16本の巨木を伐採してたてかえられている。
自然信仰の色をのこす神社は、深閑とした独特の雰囲気があるものだが、諏訪大社は御柱のせいか、自然の荘厳さをこえた混沌とした生命力のようなものをかんじられる。
スフィンクスのような阿弥陀仏
春宮の西側には砥川という清流がながれ、その中央の浮島をへて、川沿いに100メートルほどさかのぼると、森にかこまれた小さな田んぼのまんなかに、スフインクスのような仏が鎮座している。今回の目的の「万治の石仏」だ。
胴体は高さ2メートル、周囲約12メートルの巨大な自然石で、その上に高さ65センチの首がちんまりとのっている。まのぬけた表情はイースター島のモアイ像をおもわせる。実際、上諏訪出身の小説家新田次郎は「イースター島の石人の頭がきたのだろう」とかたっていたという。
胴体の自然石を石の鳥居の材料にしようとノミを入れたら血がながれたので、阿弥陀如来をまつった……というつたえられている。
「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」
「世界に例のない神聖な石であり、永遠の人生を象徴する石である」
岡本太郎は絶賛した。
岡本は、従来、弥生式土器よりもひくく評価されていた縄文式土器のアートとしての価値を発見したことで知られている。自然で素朴だけど命がやどっているようにみえる石仏に、縄文的な生命力をみたのだろうか。
頭が自然石というパターンは多いが……
でもなぜこんなユニークな石仏ができたのか。
民俗学者の五来重によると、昔の修験道の山での修行では、石の上に本尊さんや厨子をおいておつとめをした。だから西国札所の石山寺の本尊は岩盤の上にたち、それをかこむように本堂がたてられている。山伏のなかには仏像の首だけをもちあるく人もいた。万治の石仏も、自然石の上に仏像の首だけをのせたにすぎない、という。
修験道は神仏混淆のかたちで定着していたが、明治政府による慶應4(明治元)年の神仏判然令後は急速に崩壊した。社僧や別当として奉仕してきた修験道は、神道国教化の障害だったからだ。
修験道が衰退することで、万治の石仏の由来も忘れ去られていたのかもしれない。
自然石と人工的なものをくみあわせた石仏は、四国の遍路道や熊野古道、西国巡礼の道でもいくつかみかけた。
でも、万治の石仏とは逆で、頭が自然石で、胴体は人工的に形づくられたものばかりだった。
これらのパターンはどう説明すればよいのだろう? 頭をうしなったから石で代用したのだろうか?