■奴奈川姫の郷をつくる会251120
出雲とのつながりやフォッサマグナが生みだしたヒスイと信仰の関係を知りたくて奴奈川姫伝説のある糸魚川を訪ねた。地元の民俗資料館でこの本を入手した。
昭和14年までは日本ではヒスイが産出するとは思われていなかったことや、奈良時代以降、ヒスイの存在すら忘れ去られたこと、ヒスイを精神生活に取りこんだ文化圏は世界でも、日本の糸魚川・西頸城を中心とする地方と、中央アメリカのメソアメリカ(メキシコ南部・グアテマラ等)の2カ所であること(現在、ミャンマーでも採れる)……などなど、知らないことが次々に出てきた。自費出版に近いものだから記述の重複は多いけれど、郷土史家が丹念に調べたものは読みごたえがある。
古事記などに記された奴奈川姫伝説によると、「かしこくて」「美しい」奴奈川姫の話をききつけた八千矛神(大国主命)が出雲からはるばるやって来た。旅装もとかずに姫を訪問するが「1日待って」と扉を開けてくれない。地元の男神たちが強く反対するから、大国主命は「飛び比べをして私が負けたらあきらめる」と約束した。大国主命は牛に、地元神は馬にまたがり駒ヶ岳の山頂から飛んで、大国主が勝った。
大国主は姫をつれて能登半島に行ったが不仲となる。姫は逃げもどって根知谷に身をひそめたが追っ手がかかり、追っ手の放った火におそわれたという説と自害したという説がある。
大国主と奴奈川姫の間に生まれたのが御穂須々美命(みほすすみのみこと)で、その名から「美保」の名ができた。御穂須々美命は建御名方(たけみなかた)神となり、「国譲り」の際、建御雷(たけみかづち)神との相撲に敗れて母のいる越の国に逃げ、姫川沿いに南に下り、諏訪湖で力つきて降参する。大和勢力は「そこから一步も動くなと言って引きあげていった……」。そうして諏訪大社の祭神になった。
奴奈川姫は、邪馬台国の卑弥呼のように、ヒスイ王国の巫女王のような存在だった。大国主の求婚は、ヒスイ加工技術の習得も目的だった、と考えられる。事実、出雲の玉造では、花仙山のメノウで玉が作られるが、その技法は糸魚川・西頸城地方の玉作りと同じだという。
この地域では、ヒスイの大珠の研磨をはじめる千年以上前から、滑石製の耳飾りなどをつくっていた。その技術を生かして、縄文中期・後期は大珠がつくられ、晩期ごろからは明確な祭祀具として位置づけられる。
長者ケ原遺跡と寺地遺跡では、ヒスイの玉や蛇紋岩製石斧をつくる工房が発見された。寺地遺跡では、円盤形の自然石を長径16メートル、端渓10メートルに敷き詰めた敷石遺構のほか、直径60㎝の杉の巨木が4本、140センチ四方の四隅に立った形で出土した。諏訪大社の御柱のルーツという説もあるという。のちに、真脇遺跡や金沢のチカモリ遺跡、三内丸山遺跡から巨木柱が出土し、縄文人の伐採・運搬・建設技術の高さが見直されることになった。
姫川の上流の小滝川や青海町の橋立ヒスイ峡からながれた原石が日本海で荒波にあらわれて海岸線に打ち上げられる。縄文人はそれを加工していた。長者ヶ原遺跡や寺地遺跡には約4トンの翡翠が送り込まれたと推測されている。
この地区で加工されたヒスイは三内丸山遺跡や北海道の礼文島でも出土している。縄文時代は大珠が東北地方に伝わるが、西には流れていない。ところが弥生から古墳時代になると勾玉状に加工され、西に伝わり沖縄まで届く。
糸魚川周辺には縄文の遺跡は多いのに弥生時代の遺跡はない、とされていたが、後生山遺跡が発見された。4軒の工房跡は、ヒスイや滑石、めのう、蛇紋岩などを加工していた。これによって、縄文・弥生・古墳と玉作りが綿々と伝えられていたことがわかり、奴奈川姫という首長が実在した可能性が高まった。
神話では、ヒスイなどの勾玉がかみくだかれて新しい生命が誕生する。万葉集には、奴奈川は五彩の玉を産する川としてうたわれた。人々はタマへの関心と魅力にとりつかれていた。弥生・古墳時代になると貧富の差が広がり、クニとクニの争いが激しさを増すが、重大事の判断は女性の霊的能力や予知予言能力を必要としていた。
ヒスイによる玉づくりは5世紀半ばまでつづくが、6世紀から勢力を失い、7世紀ごろには日本の歴史からヒスイの玉は姿を消してしまう。
原因は仏教伝来という。6世紀、仏教を支持する蘇我氏が、伝統的神々を重視する物部氏・中臣氏を政権の座から追放した。ヒスイ玉の霊力を重んじる人たちが排除された。奈良時代になると、巨大な仏像や寺院がたちならぶなか、ヒスイは霊力を失い、不空羂索観音像の宝冠の装飾や、仏塔建立の心礎としてタマシズメの意味をもつ程度になり主役の座を去った。そしていつしか忘れ去られた。