アイヌの海で「米なし」サバ
失恋騒動のさなか、ボヘミアン最大のイベント「サバイバル」の準備がすすんでいた。
ボヘミアン3期目の夏はどうするか。3つの案があった。
①川サバイバル(川サバ) より少ない収穫できびしい環境で工夫してくらす。
②海サバイバル(海サバ) 従来のサバイバル。
③北海道ヒッチ旅行 であいをもとめて旅するロマン路線。
議論をへて「海サバ」にきまり、今までボヘミアンのサークルとしては足をふみいれたことがない北海道に着目した。
道路がなくて、水があって、集落からのアクセスが楽なところ……と、さがすうちに、積丹半島をぐるりとまわる国道229号が未完成であることに気づいた。
神恵内村の川白と積丹町の沼前のあいだの約7キロだけ道路がないのだ(1996年に開通)。
地形図を丹念にみると、川白から3キロの地点にオプカルイシ川というアイヌ語っぽい名前の川がある。ここだ!
1985年の隠岐サバイバルではみそを持参するか否かの神学論争に10時間かけた。
どんなサバイバルにしたいか? 86年もやはり紛糾した。
「たえるだけじゃつまらん。楽にあそびたい」
「自然のなかでボーッと、のんびりすごしたい」
「ストイックにやれるだけやって、たおれたら入院したらええやん!」……
3期生にあたる1回生は、ぼくら2回生にくらべるとおとなしい。「ふつうのキャンプ派」が多数をしめると予想していたが、議論はその後、意外な方向にむかう。
太宰治や坂口安吾、尾崎豊が好きだというインドア派の文学部生のカミサカはアウトドアにもっとも縁がないとおもわれた。その彼が口をひらいた。
「そもそもサバイバルっていうなら主食をもっていくのもおかしい。ふつうのキャンプとのちがいを明確にするべきや」
ハードなアウトドアをもっとも忌避しそうなカミサカがきびしい意見をのべることで、「楽でたのしいキャンプをしたい」という声は封じられた。その後もくすぶる「たのしいキャンプ派」の悪あがきにたいしては、隊長セージが前年にひきつづいて妥協案を提示した。
「サバの期間を1週間から3日間に短縮して、そのかわりコメも持参しない。あまった日程はヒッチで北海道をまわるというのはどうや」
こういうまぬけな折衷案はセージの得意技だ。そして前年につづいて彼の案が採用されることになった。
主食の米を持参しないかわりに、みそやマヨネーズなどの調味料はゆるされた。
恐怖のエキノコックス
大筋がきまったところで、コヤマがむずかしい顔をして口をひらいた。
「北海道はエキノコックスがあるやろ。大丈夫なんか?」
エキノコックスとは、キツネやイヌの糞にふくまれる虫卵を口からたべたときにおこる病気だ。発症したら、外科手術をしなければ死にいたるといわれている。
「大丈夫ではない」としたら、イチから議論のやりなおしだ。へたしたら北海道サバイバルは無理ということになりかねない。
「おれ、去年ヒッチで北海道は全部まわったけど、エキノコックスは道東や道北で、道南は大丈夫らしいで」
ヒッチハイクで小耳にはさんだ内容を、さも自分はよく知っているかのように断言した。
今ならばインターネットで情報の真偽はすぐに確認できるが、当時はエキノコックスについて知るには図書館にいく必要がある。だから「大丈夫や!」と自信満々で断言すればそれがとおった。インターネット以前の議論では知識量が重視されたため、「知ったかぶり」は有効な武器だったのだ。
ただ、コヤマは常人とちがう。なんでも徹底的にしらべるくせがあり、その強烈な探究心ゆえに麻雀はプロなみの腕だった。エキノコックスについても図書館でしらべたらしい。数日後、ぼくに怒りをぶちまけた。
「エキノコックスは北海道全体でおきてるやんか。しかも初期症状がでるまで10年以上かかるんや。フジー、おまえは責任をとるんか? フジーのいうことは金輪際信用せん!」
とはいえ、議論がむしかえされることはなく、「ま、なんとかなるやろ」と、ボヘミアンらしい根拠のない楽観主義で実施がきまった。
ちなみにエキノコックスは、20世紀になって千島列島から北海道にはいってきた。最初の流行は、毛皮とネズミ駆除のために導入されたキツネによって礼文島で発生した。1937 年から65年までに114人の患者が発生した。一方、1965 年にはじまる道東での流行は、千島列島から流氷の上をわたってきたキツネが原因と推定されている。1999年から2018年までは計425例あり、9割は北海道だが、本州の飼い犬からも感染例が報告されている。
住居はビニールシート、主食はニイナ
京都からヒッチハイクで北上する隊員もいたが、ぼくは舞鶴から新日本海フェリーをつかった。当時の運賃は1万円を切り、近畿と北海道をむすぶ公共交通機関では最安だった。
小樽港に午前5時に上陸すると、港の階段の踊り場で先発組がシュラフにくるまってマグロのようにころがっている。
積丹半島をめざしてヒッチを開始し、昼ごろには川白というどんづまりの集落についた。漁港の桟橋に昼寝してみんなが到着するのをまち、「この先通行止」の看板をのりこえて岩がゴロゴロの海岸をたどる。奇怪な岩石と灰色の海と、重く雲がたれこむ空。2時間あるいてオプカルイシ川の河口に到着した。浜は猫の額ほどしかなく、背丈ほどの雑草がおいしげっている。
草をなぎたおして青いビニールシートをしき、3枚のビニールシートを連結させた台形の屋根でおおうと、19人が横になれるテントが完成した。
だがとにかく寒い。「36年ぶりの異常低温」「気温は平年より10度低い」とラジオは報じている。ガチガチと歯をならしながら海にもぐるが、前年の隠岐とちがってアワビもサザエもいない。小さな巻き貝のニイナとウニしかとれない。魚も5尾もつれればよいほうだ。
数尾の魚とウニをみそ汁にして、あとはニイナをゆでてごはんがわりとする。米がないから、獲物の少なさはそく空腹につながる。テントで横になるころには腹がグーグーとなりやまなくなった。
大雨の予報に5人が逃亡
翌朝、つめたい雨がふりはじめた。
「低気圧が発達しているため、大雨になるでしょう」
天気予報がラジオからながれる。みんな表情はくらい。
「寒くて泳げないし、飯もくえない。こんなところで空腹にたえてなにがたのしいんや」
「精神的にまいってしまいそうや」
「こんなん、我慢しつづけてなんの意味があるんや」
弱音が続出する。2時間の話しあいの結果、前年脱走した2回生のシモザキと1回生の4人が撤退することになった。
シモザキは2年連続の脱走をひらきなおり、のちにつくった「サバイバル文集」にこんな文書をのせた。
「毎年恒例となりました脱出は本年も盛況のうちに幕を閉じました。皆様からの強いご希望におこたえし87年も開催する予定です。参加希望者は必要事項を記入し、最寄りの脱走委員まで提出くださるようお願いいたします」
ニイナが主食の縄文生活
「主食」のニイナは、汁がなくなってカラカラになるまで煮たほうがこうばしいが、だし汁をたのしめない。最初はいろいろためしたが、毎食つづくとゲップまでなまぐさくなってくる。マヨネーズやワサビ、しょうゆ……味つけを変化させても限界がある。稲作伝来以前の縄文人はこんな単調な食生活だったのだろうか。
「ニイナはもう体がうけつけへん」
音をあげる隊員もでてきた。
そんななか、海岸にはえているフキを灰でゆでて灰汁をぬき、砂糖と醤油でにこんだ煮物は大ヒットだった。大鍋があっというまにカラになった。一方、大量に採取したカラスノエンドウは灰でゆでてもにがくてくえなかった。天ぷらにすればおいしいらしいけど。
空腹で足もとがフラフラするけれど、大雨時の避難場所をさがすため、周囲を「探検」した。海岸段丘の上に廃校をみつけた。
ここは明治から大正にかけてニシン漁でにぎわうオプカル石という漁村集落で、「安内小学校」があった。最盛期は児童数は50人をこえたが、ニシン漁の衰退とともに人口が減り、1966年にオプカル石地区の魚家8軒が川白地区に集団移転し、学校も67年に閉校した。
廃校内はごみだらけだけど、雨はなんとかふせげそうだ。ほこりをかぶった日本酒の瓶がある。なかに液体がのこっている。なめてみたら、すえた味がしてはきだした。
期待させるなよ!
「王将の餃子くいてぇ」
「ヤクルトジョアのみてぇ」
「粉チーズいっぱいかけてスパゲティくいたい」
口にでるのは食べものの話題ばかりだ。
「薬ならくってもええんやろ?」
「トローチはどうや?」
「そういえば、のどの調子が……ゴホゴホ」
日が暮れると雨脚はますますつよまり、青テントの雨もりがふえてくる。穴やすきまにガムテープや新聞をはりつけても、みるみる水がもれる。
シュラフにくるまれた14人がころがり、はげしい雨音のあいだに波がくだける音がきこえてくる。おおいかぶさってくるような圧倒的な闇のなか、1時間交代でヘッドランプの淡い明かりでテントをみはり、ビニールシートの屋根にたまった水を下から傘でつついておとす。緊迫してけっこういそがしい。宇宙人の侵略から人々をまもるウルトラ警備隊のような気分になって、へたなゲームよりもおもしろかった。
砂糖水をすすり、笑いつづけた一夜
3日目の朝、空腹のため明け方にはみんな目をさました。幸いにも雨はやんでいる。アンモニアくさいねっとりとした尿がでる。
この日も2時間あまりの話しあいの結果、「精神的に限界」と表明した3人が撤退した。
「腹がへるのも気温が低いのも事前にわかっとった。オレにとっては予想よりはるかに楽。みんながくるしんでいるのがたのしい。警告したのに『大丈夫大丈夫』ってきかないんだから、ざまあみろだ。この程度で限界だなんていうのはあまい!」
コヤマは痛烈に批判した。前年とちがい、徒歩2時間でにげられる場所にしたのはまちがいだったか。
のこった11人は、砂糖を湯にとかしてすする。砂糖の袋がみつかると、蟻のようにむらがってなめつくす。
「ハエは友だちや。むちゃかわいいわぁ」と、だれかがさけんだ。
朝はニーナをとってきてくらう。魚をつって、うろこをとって、ぶつ切りにしてだしとしょうゆでゆでる。熱い汁をすするのは最高だ。8人の撤退は残念だったが、そのぶん食料確保が楽になり、食生活は向上した。
たちあがる気力もでない3人はテントで1日中横になっている。
その点、はじめからおわりまでペースがかわらないのがコージとクマだ。
コージは、到着したその瞬間からすわりやすい「コージ岩」をみつけ、日がな一日そこにすわっている。「ニイナが煮えたぞ」と声をかけると、そのときだけ「おー、メシメシ」と20個ほどたいらげてまたコージ岩にもどる。ねむくなるとシュラフにくるまる。
クマは、例会でもニコニコしているだけでなにも発言しない。撤退をみとめるかどうかの緊迫した議論でも「まっ、ええんちゃうか」。なにかで同意をもとめると「まっ、せやな」。1日中磯にすわって魚を釣って、ニイナをくって、ひとことの文句もいわなかった。
午後になってようやく太陽が顔をだした。水平線にメラメラともえてしずむ最初で最後の夕陽をながめながら、爪楊枝でニイナをつついてたべつづけた。
最終日の解放感か、夜はみんな気が狂ったかのようにわらいつづける。
「祇園祭りでヨウちゃんがむちゃセクシーでボッキして、睾丸がいたくなって、『おなかがいたい』っていって、途中できりあげてしもたぁ」
そううちあけたツルーは「ボッキー」と名づけられた。
「そんなあだ名、やめてよぉ、なんでなんだよぉ」とツルはうれしそうに抗議した。
毎日まじめな顔でラジオをきいて天気図をつけるコヤマは「テンキー」。
「やっぱり、ナプキンよりタンポンのほうがええ。あてるよりいれたほうがエロチックや」とさけんだシダワラは「タンピー」……。
しょうもない話が夜更けまでつづいた。なぜか空腹はそれほどかんじなかった。
4日目の朝、ビニールシートのテントをたたみ、ごみを焼き、川白にむけて出発する。はじめはザックの重さがつらかったが、しだいにあるくペースは加速し、川白の集落がみえるとはしりだし、雑貨店にかけこんだ。
残念なことに菓子パンはすべて売り切れ。脱走した8人が買い占めたのだろう。チョコやジュース、チーズを買いあさってカンパイする。みるみる元気をとりもどした。
3日間の重苦しい倦怠感は精神的なものであり、3泊4日の「サバイバル」ごときは、肉体にとっては限界でもなんでもないのだと気づかされた。
その日は札幌駅で集合した。隊員がヒッチハイクで知りあった「味道苑」という焼き肉屋さんにとめてもらい、半額で焼肉をたべさせてもらった。ひげのおやじは、すけべな話をしてばかわらいしながら、酒をふるまってくれた。
年をへて先鋭化、変態サークルに
サバイバルの話をかいていたら、ぼくより5歳下で新聞記者をしているピロユキからえらそうなメールがとどいた。
「おれらの時は米をふくめて食料調味料いっさいだめ。ヤスはOKだけど、釣り道具もなしや。にげたらモヒカン刈りというルールやったわ」
こうやって、年をへるごとに活動は先鋭化し、理性のたががはずれる。それが好きな新入生がはいってくるからますます先鋭化する。30年をへて「京都一の変態サークル」とよばれるようになった理由がわかる気がする。
でも、「にげたらモヒカン」というルールはすばらしい。「みんなできめたことはまもるべき」と、倫理や義務感にうったえるのではなく、「脱走」を事前に想定して「罰ゲーム」とともにイベントにくみこんでしまう柔軟性は、ぼくらにはなかった。 モヒカンになったやつはいたのだろうか? 時とともに、髪をうしなったやつは多いけれど。(つづく)