京都ボヘミアン物語㉓「ボヘハウス」誕生 ズボラ2匹がママを翻弄

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例会場を失い拠点さがし

 常識の欠如した学生が20人もあつまるとかなりうるさい。ぼくらが2回生のころは、百万遍の北東にあるタケダの下宿が例会場だったが、「うるさい」「しずかにしろ」と近所から苦情があいついだ。
 出町柳にちかいシオモトの下宿に例会場をうつしたが、またまた苦情がつづき、「いいかげんにでていってくれ」と大家さんから通告された。シオモトをホームレスにするわけにはいかない。
 以来、ボヘミアンは文字どおり「放浪者」になった。例会は教養部(吉田南構内)の教室でひらいた。当時はまだ施錠もされず、教室で寝泊まりすることも可能だった。
 でもこのまま冬になると、暖房のない夜の教室は寒すぎる。
 1986年10月、セージとタケダとシオモトで、「ボヘハウスプロジェクトチーム」が発足した。
 不動産屋をめぐると家賃4万5000円のかっこうの物件があった。
 場所は寺町通今出川上ル。砂利道の路地の奥の古い木造の長屋だ。一軒家だから多少さわいでも平気そうだ。
 1階には台所とトイレと6畳と4畳半と土間、4畳半や土間はボヘの事務所兼倉庫につかえそうだ。2階には6畳と4畳半がある。

餃子500個のオープニングパーティー

 セージとタケダはまっさきに入居がきまった。でも2人で4万5000円では負担が重い。ぼくも一度は入居をかんがえたが、1万円の家賃が1万5000円になったら生活できない。
 3人目がきまらず、プロジェクトが頓挫するかとおもった瞬間、「来春からなら」とシノミーが手をあげた。
 1986年10月26日、ボヘハウスは誕生した。2階の4畳半をタケダの居住スペース、6畳をセージとシノミーの居住スペースとし、1階部分をサークルのたまり場として開放した。
 セージの部屋には、相当数のアダルトビデオがもちこまれた。トレイシー・ローズらが出演する無修正の金髪美女ものが彼のお気に入りだった。

 ボヘハウスオープンを記念して「大餃子パーティー」がもよおされた。
 専任コックのタケダとセージは午後3時半から下ごしらえを開始。白菜・キャベツを計1.3キロ、ニラ6把、ネギ1本を1時間半かけてみじんぎりにして、ひき肉1.5キロとともにねった。ホームセンターで買った巨大鍋にいっぱいになった。
 ボヘミアンとその周辺の13人が約500個の餃子にしあげ、みごとにたいらげた。優勝した3回生のクマは70個たべてもたりなかったのか、さらにミスタードーナツを3個ほおばっていた。

犬のロンが去り、猫のチョキが来た

 1987年初夏、シノミーの実家が火事で焼け、犬のロンがボヘハウスに避難してきた。シノミーはえさはやるが散歩にはつれていかない。鎖をつけずに家の外にだすと、ロンは周辺の相国寺などをひとり(1匹)であるきまわり、夕方になるとボヘハウスにもどってきた。
 ある日、上品な60歳ぐらいのおばさんがボヘハウスをたずねてきた。ロンのあとを追跡してきたらしい。
「こんなおとなしくて、かしこくて、かわいいワンちゃんはみたことない。ゆずっていただけませんか」
 京都弁だったはずだけど、東京の山の手の女性のようにみえて、シノミーの記憶でもおばさんの言葉は東京弁になっている。
 それ以来、おばさんは毎日やってきて、ロンにおやつをあたえた。最初は警戒してうなっていたロンもそのうちになついた。
「私は犬を世話するのだけが生きがいで、家にも5匹飼っています。一度うちにつれていっていもいいですか?」
 そういっておためしで何度かつれかえり、ほかの飼い犬となじんできた。そして、おばさんの家にもらわれていった。
 おばさんの名前も住所も知らない。ボヘ界隈では「ロンおばさん」とよんでいた。

 ロンがいなくなってしばらくして、タケダが子猫をもらってきた。
 ちょっとバカな子猫だから、名前はパーにしよう、という話もあったが「チョキ」と名づけられた。ずぼらなシノミーやタケダは世話をしようとしない。セージがトイレの砂をかってきてしつけた。
 子猫はかわいい。タケダは尻尾をつかんでぶらさげてふりまわす。今なら動物虐待だ。
 そんな環境でチョキはたくましくそだった。
 ネズミやゴキブリをくわえてきて、「私からのおみやげよ!」といわんばかりに部屋におき、ほこらしげにミャ~!とないた。
 チョキは部屋の四隅の柱をかけのぼるのを常としていた。ある日、セージが外出着に着替えるため上半身裸になると、チョキは猛然とダッシュして,鋭い爪をたてて一気にセージの体をかけあがった。
 イテテッ、イテーッと悲鳴をあげるセージをよそに、チョキは得意そうに天井の梁の上でまのぬけたあくびをした。セージの毛むくじゃらの上半身を森の木とかんちがいしたようだった。
 傷だらけのセージをみながらぼくらはひとしきり笑った。

 何カ月後だったか、チョキのおなかがふくらんできた。まさかの妊娠だ。
「まだまだおぼこいと思っていたのに。こんなふしだらな娘にそだてたおぼえはありません!」
 セージは思春期の娘のママのようになげき、不妊手術をうけさせた。
 1988年春に住民がいれかわったが、チョキはボヘのアイドルでありつづけた。
 ときおり家出をしてはもどってきたが、すっかり老猫となったあるとき、ついに家出したままかえらなかった。猫は死ぬところをみられるのをいやがるという。きっと死に場所をみつけたのだろう。

洗濯した記憶がないタケダ

 共同生活には独特のストレスがある。夫婦の関係もそうだけど、几帳面な性格の人間のほうがイライラをつのらせがちだ。
 タケダは腎臓病だったから料理はつくるものの、掃除や洗濯はほとんどしない。安売りの靴下を買って、表・裏・表・裏とはいて、くさくなったらすてていた。
 ……という記憶を本人に確認したら言下に否定した。
「いくらなんでも表裏なんてはけへん。きたないやろ!」
 そして真相をかたった。
「洗濯がめんどうやから、靴下は30足はもってた。1カ月で一巡して、3カ月で3巡するまではく。90日は洗濯しないですむ。においがせん靴下をはいたつもりでも、身につけるとにおいだす。とくに冬場の炬燵はあかん。すごいにおいになった」
 そこまできいておもいだした。冬場のボヘハウスの炬燵の猛烈なにおいはタケダの足だったのだ。ちなみに彼はパンツも30枚もっていた。何日かはくと「尻にべったりはりついた」という。ほかの服も「洗濯した記憶がないな」。
 もったいない。なによりきたない。
 でもスタイリストを自称していたタケダは、スーツや革ジャンなど、高価な服をそろえていた。映画「つむじ曲がりブルース」を撮ったとき、いけすかない金持ち学生役の衣装はすべてタケダの服だった。
 汚いやつなのに清潔にみえて、もてる。いっぽう、セージは毎日風呂にはいり、洗濯もこまめにするのに「きたない」といわれる。
「どうかんがえても、タケダがオレより清潔感があるとおもわれるのはゆるせん!」といつも腹をたてていた。

掃除をさぼりたおす2人にママは根負け

 ボヘハウスの清掃は住民3人で当番をきめていた。だが、タケダとシノミーはめんどうな仕事はさぼりたおす。
 セージはさぼろうとする2人をしかる。そのときはしぶしぶ雑巾を手にするが、そのうち、いくら小言をくりかえしても馬耳東風、馬の耳に念仏……。
 とくに問題なのはトイレだ。ボヘの連中が毎日のようにおとずれるからすぐによごれる。セージでさえも掃除はしたくない。
 当番がきちんと機能すれば問題ないが、タケダとシノミーは、すきあらば、さぼった。
 セージは決意した。
「やつらがたえられなくなってみずから掃除をするまで、おれはせえへん。今度は負けへん」
 1週間も放置すると、便器は黒ずんで、うんこがこびりついて、陰毛がすみっこにふきだまり、ハエが旋回しはじめる。
 だが、タケダとシノミーは「きたない」とすらかんじない。
 けっきょく、よごれきった便器を、根負けしたセージが清めることになった。
「どろどろによごれたトイレをかたづけるストレスといったら……こんなんだったらはじめから自分で掃除しとけばよかった……」
 セージはそのストレスを、ボヘミアン共通の日記である「ボヘノート」にぶつけた。
 ぼくらはそれをよんでは腹がよじれるほど笑い、いつしかセージのことを「ボヘハウスのママ」「ボヘママ」とよぶようになった。

「クイズMr.ロンリー」で優勝、賞金30万円

 ボヘハウスが軌道にのったころ、セージはボヘミアンの威信をかけて毎日放送(MBS)の「クイズMr.ロンリー」という番組に出演することになった。
 この番組は、クイズにこたえるのは男性出場者で、ひな壇にならんだ女性出場者30人がクイズを出題する。男性は女性がよみあげるクイズに正解しつづけないとそれまで獲得していいた賞品が没収され、賞金は半額になるが、女性は出題相手が正解するだけで賞品と賞金を獲得できるという女性優位の番組だった。
 時間いっぱいの時点でチャンピオンの座にいた解答者が「今週のチャンピオン」となり、ハワイ旅行をかけたチャレンジクイズに挑戦し、正解すれば解答者も出題者も海外旅行にいけるという、バブル時代らしい大盤ぶるまいだった。
 男が正解すると、女は得をするから、出題する女の子は解答者に投げキスしたり、クネクネとして「お願いしまぁす!」としなをつくったり……
「セージさん、デートしてください!」といわれて
「ほっ、ほんまですか?」とセージはのぼせあがった。
 1問目を正解して5000円、2問目正解で1万円、3問目も突破して2万円……。事前にボヘハウスで作成した予想問題も出題された。
「DCブランドのDはデザイナー、ではCはなんでしょう?」
 すこしためて、なやんだふりをしたあと、セージはこたえた。
「キャラクター!」
 放送局におしかけた約10人のボヘミアンの熱烈な声援をうけたセージは全10問に正解してチャンピオンになった。
 次は、ハワイ旅行をかけたチャレンジクイズだ。ボヘミアンにとっては、すでにカラオケセットなどの賞品や30万円の賞金は獲得したわけだし、セージがハワイにいってもたのしくもなんともないから、まちがえてくれてもかまわない。
「5月10日から16日は愛鳥週間、では文化の日をはさんだ週はなに週間でしょうか?」
 セージは自信満々でこたえた。
「愛犬週間!」
 なわけねぇだろ!
「サイテー!」
 出題者の女の子にののしられておわった。
 放映日の新聞テレビ欄には「狂乱京大生…!」と紹介された。

 30万円という多額の賞金をゲットしたのだ。当然、応援団にもいくばくか還元されるはずだ。京都にもどり、セージはみんなに宣言した。
「みんな、なんでもくってくれ!」
「オーッ、さすが隊長や」とよろこぶ隊員たちをひきつれてはいった店はココイチ(Coco 壱番屋)だった。せこい!

 クイズの賞金のうち12万円でセージはファルトボート(折りたたみ式カヌー)を買い、「安曇川号」と名づけた。セージのカヌーを経験することで、ボヘメンバーはカヌーの魅力にめざめ、社会人になって余裕ができると次々にカヌーを購入することになった。

四万十川で。黄色いのが安曇川号=1991年
琵琶湖の海津大崎=2020年

蚊取り線香でボヤ 追い出しの危機

 1987年夏の夜、タケダは息苦しくて目をさました。
 部屋に煙が充満している。ふとんがブスブスとくすぶっている。火事だ。
 蚊取り線香の上にふとんをかぶせたまま寝てしまったのだ。
 あわてて水をかけた。1階の部屋まで水びたしになった。真っ黒にこげたふとんは家の前の路地にだして消火した。そこまではよかったが、そのままふとんを放置して朝をむかえた。
 こげたふとんを目撃した近所の人が大家さんに通報した。せまい路地にそって木造長屋がつらなっているから、火事にはシビアなのだ。
 大家さんからよびだしをうけた。犯人のタケダではなく、なぜかセージが大家さん宅をたずね、きつくしぼられた。ここでもタケダとシノミーはにげた。かわいそうなセージ。でもなんとか追いだされずにすんだ。

砂利だった路地は舗装され、ボヘハウスは駐車場に(左奥)

 ボヘハウスは数年後に場所をうつしたが、2022年現在もつづいているらしい。
 旧ボヘハウスの長屋はとりこわされ、駐車場になっている。
「ボヘハウス」という拠点なしにはその後のボヘミアンの存続はなかったろう。でも当時のぼくらは、目の前のことしかかんがえていなかった。 人生の重要な分岐点って、たいていその程度のものなのだろう。(つづく)

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