通史・足尾鉱毒事件1877〜1984<東海林吉郎・菅井益郎>

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■世織書房20230801
 田中正造記念館のスタッフに「足尾銅山鉱毒の全体像を知るのにおすすめ」といわれて購入した。1984年出版だが東日本大震災後の2014年に復刊した。
 足尾銅山の開発は1610年ごろはじまり、銅の5分の4は幕府御用、残りはオランダに輸出された。その後、地下水の湧出で廃坑同然になる。
 明治になって古河市兵衛らによって復活し、輸出産品となったため拡大され、1884年、別子銅山を抜いて全国一の銅山になった。
 そのころから煙害で樹木が立ち枯れ、87年には渡良瀬川から魚影が消えた。1890年の大洪水で米の収穫が皆無となった。。
 農民が被害に抗議すると 「古河市兵衛は、徳義上示談金を支払う」「…粉鉱採集器の効果をみる期間を明治29年6月30日までとし、契約人民はそれまで一切苦情をいえず、また行政、司法処分を請うことをしない」
 企業責任をあいまいにして、わずかな金額で、被害農民の口を封ずる。水俣の「見舞金」の祖型である。 製錬所上流の松木村は、1901年1月「煙害救助請願書」を政府に提出するが解決されず、その年の暮れには廃村になった。
 田中は鉱業停止の請願運動を組織し、現在の被害補償よりも、将来にわたる生存の保障を重視する方針をさだめた。
 第1回「東京押出し」では、役所に陳情・請願し、議員に「被害地惨状御見聞願」のチラシをくばった。
 第一次鉱毒調査会による処分は、鉱毒予防工事命令と、地租の免租をさだめたが、全村が免祖地となった群馬県邑楽郡大島村や栃木県足利郡久野村は、村の財源がゼロになり、公民権所有者も激減したため、自治の運営が不可能となった。
 そして1900年の「第4回東京押出し」は待ち伏せた警察によって100余人が逮捕される「川俣事件」となり、これ以来反対闘争は衰えていく。
 一方、川俣事件の裁判で「被害地臨検」をすることで、足尾銅山鉱毒事件そのものが報道されるようになる。
「見渡すかぎり茫々たる大砂原と化し、小丘のように表土を積みあげた毒塚の点在する、かつての美田であり、原野と変わらぬ枯死した桑畑であった。…竹藪という竹藪は根が腐り、だれでも容易に引き抜くことができたし、雷電神社境内の100本にもおよぶ杉の森は、赤く変色して枯死寸前であった」…などと報じられた。
 「押し出し」の挫折で田中は天皇への「直訴」を決意する。1901年の第15回帝国議会で田中は鉱業停止を要求し、「是ダケ申上ゲテモ政府ガソレヲヤラナケレバ、政府ハ人民ニ軍サ(いくさ)ヲ起セト云フコトノ権利ヲーー軍サヲ起ス権利ヲ与ヘルノデアル」と、被害農民の抵抗権を主張し、10月に衆院議員を辞した。
 直訴は、天皇の慈悲にすがろうというのではなく、直訴という衝撃によって報道機関を動員し、鉱毒反対闘争の活性化をはかろうと考えた。
 決行半年前から協力したのが毎日新聞主筆の石川安次郎(半山)で、直訴状を執筆したのが幸徳伝次郎(秋水)だった。
 1901年12月10日、帝国議会の開院式に臨んだ天皇が、、貴族院をでて貴族院協の大路を左に進みつつあった。そのとき、直訴状を手にした田中正造が、おねがいがございますと叫びながら、天皇の馬車に迫った。驚いた警護の近衛騎兵曹長が、「剣を抜て之を刺さんとし」て落馬、田中もつまずいて転び、警戒中の警官に捕らえられた。
 幸徳は直訴状の写しを、通信社をつうじて各新聞社に流したあと、素知らぬ顔で、石川と木下尚江のいる部屋を訪ねた。
「…実は君達に謝りに来た。田中正造が昨夜遅く直訴状の執筆の依頼にきた。僕だって直訴なんか嫌だが、仕方なく書いてやった」と芝居を演じた。
 これを真実と信じた木下は著書などに書き、直訴計画の真相を覆い隠す贋の証言者の役割を1970年代までつづけた。
 田中は取り調べに際し、ひたすら天皇にすがったものとするたてまえを貫ぬき、謀議を秘匿したので不敬罪は成立しなかった。
 教科書では義人がやむにやまれず決死の覚悟で天皇の慈悲にすがった、という描き方だったが、実は周到な準備があったのだ。
 石川の「当用日記」によれば、直訴後、幸徳と田中と石川の3人があつまると、幸徳が、やったやったと快哉を叫んだ。幸徳は直訴状の執筆者として取り調べをうけたが、木下に語ったように話すことで、問題にならなかった。
「失敗せり…一太刀受けるか殺さ(れ)ねばモノニナラヌ」と石川が言うと、
「弱りました」
「やらぬよりも宜しい」
 田中は、みずからの死を代償に鉱毒反対闘争の活性化と政府の政策転換をねらったのだ。
 直訴で世論は沸騰し、キリスト教や仏教系の学生たちが「鉱毒視察修学旅行」でおとずれるようになった。足尾銅山鉱毒事件は「明治後半の最大の社会運動」となった。
 それにたいして政府は、鉱毒視察修学旅行のみならずあらゆる被害地視察を禁止した。

 渡良瀬川は利根川にそそぎ、関宿において江戸川が分流する。1896年の大洪水は東京まで鉱毒被害を発生させた。内務省は1898年、関宿の江戸川河口を石材とセメントで埋め、明治初期には26〜30間あった河口を9間あまりに狭める一方、渡良瀬川の河口(合流点)を拡幅し、利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくした。
 これによって合流点付近に氾濫がおこりやすくなり、水源地帯の荒廃と渡良瀬川の河床上昇がかさなって鉱毒激甚地と化した。
 1903年の第二次鉱毒調査会の報告書は、鉱毒被害は過去の鉱山が原因として、企業責任を免罪した。洪水の原因が、煙害と山林濫伐による水源地帯の荒廃にあることも無視した。以後、鉱毒問題を治水問題にすりかえ、土木工事を中心とする洪水対策が中心となっていく。
 そのころ内務省はひそかに、栃木県の谷中村、埼玉県の利島、川辺両村で遊水池化を計画していた。
 1902年1月、利島、川辺両村の鉱毒委員がそれを聞きつけ、反対闘争を開始する。
「県庁にして堤防を築かずば吾等村民の手に依て築かん。従って国家に対し、断然納税兵役の二大義務を負はず」
 両村合同村民大会は決議し、「納税と徴兵拒否」を武器にたたかい、埼玉県当局は遊水池化計画を断念した。
 田中正造はこの運動に奔走し、解決後の1903年夏以降は谷中村にかかわる。日露戦争が開戦した1904年7月に村に移住した。
 1905年8月、戦争に勝利した日本は、谷中村の遊水池化計画をすすめ、1906年7月、藤岡町との合併を強行する。戸数450、2700人の多くは買収に応じた。反対派農民は1907年はじめには70戸400人になり、1907年1月、堤内16戸と堤外地に残留していた3戸が強制的に破壊された。116人の農民は仮小屋をつくり、以後10年間、村復活を目標として住みつづけた。
 田中は、村外の有力者や知識人に、谷中村の土地所有者となって、土地買収に歯止めをかけるようよびかけた。全国各地の開発反対闘争などで実施されている一坪地主運動などの先駆だった。
 江戸時代、利根川の右岸の堤防を高くすることで、舟運に必要な利根川の流量を維持すると同時に、右岸の水害を防ごうとした。渡良瀬下流地域の人々は、逆流洪水に悩まされた。利根川から江戸川への分流口である関宿の石堤を狭めたことが、逆流洪水の原因であると谷中村廃村以降の田中は強調した。彼の晩年の10年の活動は、谷中村復活のため、関宿の石堤をとりはらって、利根川の水を江戸川に流す治水方針の実現に向けられた。
 周辺の多くの農民は、谷中村の遊水池化で、自分たちが洪水から救われると考え、運動から離脱し、田中正造と谷中村残留民、他町村有志による少数のたたかいとなった。県当局の切り崩しで、有力な農民活動家が次々に県側に寝返った。
 田中は亡くなる直前、こう言い残している。
「同情と云ふ事にも二つある。此の田中正造への同情と正造の問題への同情とハ分けて見なければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題から言ふ時にハ此処も敵地だ」
 源義経や楠木正成のように、田中は孤独なたたかいを強いられた。
 1913年9月、河川調査の旅先で田中は没すると、すでに袂を分かったはずの何万という農民が葬儀にあつまった。「一市民の葬儀としては、おそらく日本近代史上最大の葬儀であった」。かつての農民運動家たちは、火葬後5カ所に分骨した。

 運動に身を投ずる前の田中はどんな人だったのか。
 1857年に17歳で名主となり、1862年には、藩財政の破綻を村落支配強化によって解決しようとした領主権力と10年たたかいつづけた。三尺立方の獄に捕らえられた際は、毒殺を予期して鰹節2本で30日以上もたえた。明治になって、陸中江刺県花輪支庁(秋田県鹿角市)の役人だった際、上役斬殺の嫌疑でとらえられた。石責めの拷問にも屈せず、3年あまり入獄した。
 1880年に県議会に初当選した田中は全国の民権家とともに、「国会開設建白書」を元老院に提出した。福島事件で知られる三島通庸が、栃木県令として赴任し、強権を発動しての巨額の土木工事とさまざまな不正をおこなうと、壮絶なたたかいを展開した。三島らの暗殺未遂事件である加波山事件がおきると累犯者として逮捕された。三島県令が転任し田中が出獄すると、県民は歓呼でむかえたという。

 足尾銅山の鉱毒問題は「歴史」と思われがちだが、戦後もつづいている。
 1958年、14の堆積場のうちのひとつ源五郎堆積場が決壊し、6000ヘクタールの水田が被害をうけた。
 1971年、太田市の毛里田地区産米のカドミウム汚染があきらかになった。古河鉱業側に鉱毒被害の責任を認めさせ、それまでの「寄付」といった形ではなく、損害賠償としての補償金を払わせたのは、1世紀の歴史ではじめてだった。足尾銅山は1973年2月に閉山した(愛媛の別子山銅山も3月閉山)。
 今も堆積場の問題は解決できていない。2011年の東日本大震災でも堆積場の一部が崩れ落ちている。 
  旧谷中村の渡良瀬遊水池は土砂でうまり遊水池としての機能もはたせなくなった。1963年から遊水池の調節池化、次には遊水池の一部をほりさげる貯水池化工事がはじまる。
 計画地には、旧村の遺跡である延命院跡と共同墓地があった。谷中村残留民の子孫が1972年に工事のブルドーザーの前にすわりこんで守りぬいた。貯水池がハート型をしているのは凹部に共同墓地と延命院跡があったからだ。

 田中の近代の機械文明への疑問は福島原発事故を予想していたように聞こえる。
「世界人類の多くハ、今や機械文明と云ふものニ噛ミ殺さる」
「デンキ開けて世見暗夜となれり」「日本の文明、今や質あり文なし、知あり徳なきに苦むなり」

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