古代DNA 日本人のきた道

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■250611  国立科学博物館
 人類は300万年前にアメリカで誕生。6万年前にアフリカを出て世界に広がり、日本列島には4万年前にたどりついた。
 石垣島の新空港建設にともなって2007年に見つかった白保竿根田原洞穴遺跡は、25体の人骨が見つかり8体が2万7000〜3万年前の旧石器時代人だった。

縄文人のモンタージュ写真

 これによって縄文人は、北東アジアからのグループと南からのグループの2つの集団によって形成されたことがわかった。
 縄文時代は土器が出現する1万6000年前から稲作がはじまる2400年前まで1万3000年間を6つの時期にわけられる。
 3600年前の女性の人骨を調べると、血液型がA型で酒が強かったこともわかったという。
 男性は石棒、女性は土偶であらわした。内部から石棒が出土した土器もある。石棒を大日如来などとして拝むのは紀伊半島でもでよくみかけた。こういう信仰は縄文の男根信仰からの流れであることがわかる。

 縄文晩期終末3100年前には西日本には米、アワ、キビが登場する。稲の穂をつみとる石庖丁も出土した。ただし縄文人は、穀物を主な食糧源にはしていなかった。そこが穀物に依存した弥生人とは大きく異なる。
 動植物をかたどった土製品は、動物も植物もその再生を祈る対象であったことをしめす。
 弥生時代は1100年間つづく。BC4世紀、鉄器文化をもつ人々が朝鮮からから移住してきた。弥生人の顔は今の日本人に似てのっぺりしている。
 2世紀になると根刈り用の鎌が出現する。
 石庖丁による穂づみから根刈りへの転換は、稲穂が同時に実るような品種改良がすすんだことを示すという。
 現代の本州の人の縄文の遺伝要素は10−20%、沖縄は30%、北海道のアイヌは70%という。
 人骨の食性分析によって食事に占める穀物の割合を分析できる。
 1万年前の長野・栃原岩陰遺跡ではクリなどの堅果類が中心だが、BC7世紀の生仁遺跡では、アワやキビも食べていた。だがアワやキビが主要食糧にはなっていない。
 一方、BC3世紀の渡来系弥生人は米に依存していた。吉野ヶ里遺跡や2世紀の鳥取青谷上寺地遺跡で魚類の割合が多いのは海に近いところだからだ。

 古墳時代に入り、5世紀には馬が導入される。6世紀後半に日本でも製鉄がはじまる。それまでは朝鮮南部から素材の鉄鋋を輸入していた
 和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡は、古墳時代の遺跡なのに、縄文人の要素が多く、副葬品も農具がなく、釣り針などが多い。熊野に前方後円墳がほとんどないのは水葬が主流だったからという説があるが、それは縄文以来の伝統なのかもしれない。
 ゲノム解析で親族関係もわかる。何親等までがいっしょに埋葬されたか、といったことがわかってきた。

 イヌは東アジアで誕生し、東西ユーラシアにわかれた。イヌの祖先にもっとも近縁的なのがニホンオオカミだ。1万年前、縄文時代にイヌが渡来し、その後7000年間はほかとまざらなかったため、アジアでもっとも古いイヌのグループとなった。柴犬ほどの大きさだった。
 弥生時代になって大陸から新しいイヌがきた。農耕社会になって、人からもらう食べ物にも適応していった。
 イエネコは、中東のリビアネコが起源。日本では弥生時代が最古だが、平安時代から数が増え、そのころのネコが今のネコの祖先という。

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 人間の身長は時代とともに伸びてきたと思ったら、そうではなく、古代とくらべても江戸時代が一番低かった。男156センチ、女145センチが平均だった。
 最新のゲノム解析の技術をつかうと、人類の歴史さえ具体的・立体的に見えてくるのがおもしろかった。

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