学ぶことを学ぶ<里見実>

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■太郎次郎社20231226
 テーラーシステムとフォード・システムの特徴は、労働過程における「構想と実行の分離」にある。働く者の「構想する」権利を拒むことによって、巨大な生産力を実現してきた。それによって、生き甲斐と自己実現につながっていたはずの労働は単純化し、無意味化された。シニカルな態度で「生の無意味化」に耐える労働者のシニシズムは教育にも浸透し、「学ぶ」という行為そのものの手応えではなく、その対価として得られる報償が学生の関心事になっていった。
 若者たちは、没意味化され、手段化された学習をとおして、疎外された労働に耐える訓練をほどこされる。学習に対する態度が功利的・打算的になり、進学や就職につながらない勉強をしようとしなくなっていった。
 
 本来の学びとは、好奇心をもって世界と対話し、モノやコト、本との交渉をとおして自分の世界を構築していくいとなみだ。
 本を意味深く読むには、読者のなかにそれをうけとめる文脈ができていなければならない。各地を歩き人々とふれあって、本の外部の文脈が豊かになることによって、本はより興味深いものになる。
 経験を表現することは、その経験を生き直し、新たな次元をきりひらくことになる。現実の体験は、テキストを「読む」ためのcontextであり、逆に自分の生を「読もう」とすれば、「読書」でふれる他人の物語が、自分の「実体験」を解読するためのcontextになる。読書と実体験は、たがいにtextとなり、contextとなって、人生を意味深いものにしていく。
 経験を放置しておけば、時間とともに風化するが、反対にささいな経験でも、それを言語化し、そこにふくまれた意味をくみつくせば、広がりと深さをもった経験と化すことができる。テキストで表現することは、その行為をとおして経験をつくり出していくことでもある。
 学生が本を読まない、ということ自体が深刻なのではない。本を読まなくてもすむような人生しか生きていない、ということが深刻なのだ。
 つくることから学生を疎外してきた日本の教育の体質は国語教育にあらわれている。「正しい解釈」を先生から教えられ、それを「覚え込む」という「読解指導」が支配的だ。
 フレイレの成人識字教育や日本の生活綴り方はそれとは反対で、学習者を「語り手」にするものである。

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