■サンクチュアリ出版2410
東大法学部をでて一流IT企業にはいったはいいけど、組織でうごくことができずすぐに退職し、田舎にいこうと奄美大島に移住するけど、それも失敗、芸人をめざしてR1グランプリにでるが笑いのひとつもとれず敗退。離婚して、32歳で実家でひきこもり生活に。
なにもかも失ったとき、東洋哲学にであい、本をむさぼりよんだ。その結果、たとえば禅の教えを「言葉を捨てろ」とひとことで要約してしまう。その教えから自分がどうやって生きる力をひきだしたかを漫画や写真をつかって表現する。ポップで読みやすくて楽しい。
よっぽど咀嚼しないとここまでバッサリ断じることはできないぞ。
板野博行の歴史の本とちょっと似ている。ベストセラーはこうやってできる、という見本のような本だ。
ぼくらはついつい取材した内容をあれもこれもとつめこんでしまうけど、「要は」とやさしい言葉でズバッと言わないとダメなんだなぁ。
ひきこもりニートだった筆者は、ものすごい才能と、ものすごい不器用さとコミュニケーション障害が同居する人だったが、すべて失って、東洋哲学にであったおかげで本を書けて、奧さんも子どももできちゃった……という。
「要は」の内容を列挙すると……
▽無我 ブッダの哲学
ブッダは超ハイスペックのひきこもり。苦しみの根本原因は「自分」。自分を捨てちゃうと楽だよ。
▽空 龍樹の哲学
龍樹は、論破好きで人間性は最悪。最悪の人間でも変われることをしめして大乗仏教をつくりあげた。世界なんてぜんぶ「ディズニーランド」みたいなフィクション。彼氏と彼女、兄と弟、夫と妻……すべてはお互いに依存して成立している。会社や家族や国もフィクション。さらにモノさえもフィクション。すべてが「空」ですべてがつながっている(縁起)。ひとつのものに宇宙をみる。自分のなかにも宇宙をみる。
「空」をかんじるのは、卒業式の日の教室。みんなが意味から解放されて、なにものでもなくなったときの、キラキラしてて透明なかんじ。著者自身、無職になり離婚して友だちも失って、「家族」「会社」「社会」というフィクションが崩壊したとき、まわりがキラキラみえてきた、という。
▽道 老子と荘子の哲学
インドの「空」の哲学は、この世界からの「解脱」がゴール。中国の哲学は、この世界を「楽しむ」のがゴール。現実世界での勝ち方も教えてくれる。「空」はこの世界を幻とみるけど、「道」はこの世界を「夢」とみる。
▽禅 達磨の哲学
「空」「道」といった「言葉をこえた」境地にどうたどりつけるのかのこたえのひとつが「禅」。「禅」の教義は、「言葉をすてろ」のひとことだけ。
「両手をたたけば音がなる。では、片手ではどんな音があるか」という禅問答で、「両手をたたけば音がなる」は、「パンッ」を「有」としてしまう。その音がきえたことが「無」になる。フィクションの世界にさそいこむための罠。「パンッ」という音につられて「有」をうみだすから、いまここの世界の音をかってに「無」と名づけてしまう。
……自分が「ダメ」とおもった瞬間、「あ、言葉の世界に入ってるな」と認識するだけでぜんぜんちがう。散歩でもなんでもいいから、とにかく言葉の世界からはなれる。「できる自分」みたいな、別のフィクションはむしろ毒。
▽他力 親鸞の哲学
ブッダもおどろく超進化。
親鸞のいた平安末期は、日本の歴史上最悪の時代。
「自分」というフィクションが崩壊してからっぽになったとき、夕陽のひかりがすっぽりはいってくる。悟れないことを認めると、「空」のほうからこっちにやってくる。それが「他力」の哲学。悟れると信じて「自力」で「空」をめざす禅の真逆。
法然は「ダメな人間」っぽくないが、。親鸞は庶民的な顔で、戒律を破って結婚した「ダメな坊さん」。筆者も社会的に死んで「からっぽ」になって、この世界とつながりなおすと人間関係もうまくいくようになった。
▽密教 空海の哲学
空海の首が太い。フィジカルモンスターで「陽キャ」。クラスの中心にいる人気者。密教は社会にむちゃくちゃ肯定的。脱・無職の哲学。
禅は「○」、密教は「曼荼羅」。密教は「空」のさらに「奥」をみようとする。密教は「大日如来に、なっちゃえ」と説く。同じポーズで、同じ言葉をつかい、同じ心をもつ。「なりきる」こそが「自分」をつくる。「自分」をこえたでっかい「自分」になる。それを「大我」とよぶ。象徴の力をフルにつかって「大日如来になりきる」ことが「即身成仏」。密教にとって「空」は理解しておわりではない。人助けしてナンボ。それができたら「自分」がきえて、めっちゃ気持ちいい。