妖怪と怨霊が動かした日本の歴史 なぜ日本人は祟りを怖れるのか<田中聡>

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 源氏物語の怨霊の様子からときおこす。光源氏の最愛の妻の紫の上は、嫉妬にともなう怨霊にとり殺される。生霊という言葉は、紫式部が創作したとされる。
 清少納言は「枕草子」で、「病は、胸。もののけ。あしのけ」と書いた。「胸」は胸の病、「あしのけ」は脚気。モノノケはそれとならぶ病名だった。陰陽師が病がモノノケだと判断したら、僧侶が加持祈祷をした。
 記録にのこる最初に怨霊は、藤原氏の策謀によって妻子と共に729年に自害に追いこまれた長屋王のものだった。
 桓武天皇は長岡京に遷都するが、785年9月、新京造営の指揮者の藤原種継が殺される。犯人として大伴氏、佐伯氏を中心とする人々がとらえられ、首謀者は1カ月前に亡くなった大伴家持とされた。皇太子である早良(さわら)親王も連座したとしてとらえられる。桓武は、弟の早良ではなく自分の子の安殿(あて)親王を皇太子にするため、この機会を利用したとみられている。
 早良は乙訓寺で幽閉され、憤って十数日間も食事をとらず、淡路へ流される途中、淀川の高瀬橋あたりで死んだ。それでも赦されず、淡路に埋められた。早良らの怨霊への恐怖と水害によって長岡京は棄てられた。
 新たな平安京は、怨霊対策で、宮殿の南に神泉苑という池苑をおき、東西に東寺と西寺を建立、鬼門には延暦寺を配した。神泉苑は、後に疫神や怨霊の祭りがおこなわれた。
 貴族たちをなやませた疫神や雷神にくらべると、モノノケは現在の幽霊にちかい存在だ。奈良時代までの皇統は大陸の勢力や豪族たちの軍事力バランスのうえにあり、皇位争奪戦は大きな戦乱がともなった。だが貞観5年に御霊会を催した藤原良房が摂政となってからは、天皇と藤原北家のあいだに生まれた皇子のみが皇位継承権をもつようになり、争いは内輪もめになる。政争の変化を反映して、怨霊はミクロ化した。
 菅原道真は、宇多天皇に重用された。学問によって低い地位から異例の出世をとげ、娘たちを宇多天皇の女御にしたり皇子の斉世親王の室にしたりした。後継者に恵まれなかった藤原氏には危機だった。そこで、道真が醍醐天皇を廃して斉世親王を擁立しようとしたという疑いをでっちあげ、太宰府に左遷した。道真は太宰府で死ぬ。
 道真の恩を受けながら裏切った藤原菅根、怨敵だった藤原時平、時平の妹が産んだ保明親王……と、道真の宿敵やその縁者たちが次々に死んだ。清涼殿で公卿が雨乞いの相談をしていたとき、雷が柱を直撃し何人も亡くなった。そのショックで醍醐天皇も亡くなった。
 道真の怨霊は、宮廷内の政争から生まれたが、民間に信仰される御霊(疫神)としての威力も備える神となった。報復をはかる怨霊神と、災厄をまきちらす眷属は冥界の巨大な軍団となった。そして平将門の叛乱という、道真の怨霊に動かされた軍の蜂起が現実に起こった。
 将門と藤原純友の乱を鎮圧した勲功者たちの家系は武士(もののふ)の家となった。将門が討たれたことで「武者の世」への道が開かれた。天台座主の慈圓は「愚管抄」で、「武者の世」は怨霊にあやつられて実現した末法の世だと評した。
 保元の乱によって讃岐に流された崇徳院は、舌の先をかみ切って、流れでる血で、五部大乗経の奥に「日本国の大悪魔」になってやる……と記し、髪も爪も伸びほうだいにし、生きながらに天狗の姿になった、と「保元物語」はしるす。
 崇徳は父の鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれていた。鳥羽の祖父である白河院が、自らが愛した璋子を鳥羽に嫁がせたうえに、その後も密通をつづけ生まれた子だったからだ。鳥羽にとっては、建前は子だが、じつは叔父でもあったのだ。
 崇徳を愛する白河院は、鳥羽天皇を退位させて5歳の崇徳を即位させたが、白河の死後、鳥羽は反撃に出た。崇徳は譲位を迫られ、3才の近衛天皇が即位する。
 保元の乱で源義朝は、崇徳側についた父の為義、弟の頼賢らの首を斬った。810年の「薬子の変」以来、約350年ぶりの死刑が、武士の復讐という慣行にかこつけて復活された。保元の乱は、宮廷内の政争が武士の合戦によってはじめて決せられた事件だった。もはや政争は、宮廷内の座席争いではおさまらなくなった。
 慈圓は「日本国の運は尽きはて、大乱が起き、武者の世となってしまった」と記した。「武者の世」とは、怨霊たちがダイナミックに歴史を動かす時代だった。
 崇徳は、讃岐に流されて8年後の1164年に亡くなる。
 平家物語は最期の地を、実際とは異なる志度であるとする。志度は龍神信仰で有名な地で、その沖には竜宮があると信じられていた。
 危機の世に経典は海中深く竜宮に委ねられるという説が、崇徳院の怨念と結びつけられた。海底に沈められることで、世界の転覆と乱世の出現が可能になると信じられた。崇徳の呪いは、竜神の力だった。
 1176年、後白河院と藤原忠通の縁者で、院号をもつ者が4人つづけて亡くなった。翌年4月28日、大火で大内裏までが焼けた。後白河は崇徳と頼長の祟りのすさまじさを思い知り、讃岐院と呼ばれていた院に崇徳院という院号が贈られた。
 崇徳の霊は平清盛を出世させ、ヤマタノオロチを安徳として誕生させ即位させた。壇ノ浦で安徳天皇は二位尼に抱かれて海に沈む。彼女は三種の神器のうち、神璽(勾玉)を脇にはさみ、宝剣を腰に差して入水した。鏡は船に残された。勾玉は発見されたが剣は見つからなかった。
 宝剣の喪失は、妖怪にとっては慶賀であった。ヤマタノオロチの生まれかわりである安徳天皇は、世を争乱に巻き込み、剣とともに海に還っていった。
 1221年の承久の乱で敗れた後鳥羽は隠岐へ流されて1239年に亡くなる。生前から怨念による祟りが噂されていたほどだから、死後には怨霊-天狗となって天下を乱れさせた。1242年に北条泰時が悶絶死する。武家の権勢が天皇をしのいだとき、武家は天皇の怨霊を怖れなければならなくなった。

 一方、民間で盛況だった御霊会は、誰かの死霊というより疫神を鎮撫する祭礼だった。雷神や「狐」が信仰の対象になった。
 雷神は龍蛇神であり、降雨を支配し農業生産を支える土地に根ざした神だ。狐は市を支配し、流通するところで力を発揮する。平安中期以降に稲荷信仰と狐が結びつくようになって、狐と竜神が結びつく。稲荷信仰は雷神信仰でもあったからだ。
 狐は稲荷信仰に入りこみ、雷神と習合したことで権威を高めた。だが一方で「狐憑き」という妖怪のような存在でもありつづけた。

 江戸時代、「狐つきはうそ」という儒者にたいして、上田秋成は「世の中を見れば、狐や狸がつくことなど、いくらでも実際に起こっているではないか」と反論した。奉行所で人にとりついた狐が裁かれ、狐の言葉だけで捕らえられ、拷問される人もいた。不思議なふるまいをする者で、天狗とかキリシタンとかの風評が広がって捕らえられる例もあった。

 秀吉が野狐を殲滅すると伏見稲荷を脅したように、狐も公儀の管理下にあるべきとされた。戦乱のない徳川時代、町奉行が命じて(狐が)落ちるほどになっていた。
 だが幕末の混乱期になると、新手の強力な狐が現れる。
 1858年、アメリカのミシシッピ号によって長崎にコレラがもたらされた。1822年につづいて二度目の流行だ。3年近く全国に広まり、江戸だけでも死者15万とも20万ともいわれる。文久2年(1862)には、残留していたコレラ菌によるとされる3回目の大流行があった。
 はげしい疫病流行のなか、人々は妖怪じみた獣の姿を見た。三峯山には御犬(御札)を借りようと参詣者が殺到した。コレラを狐のしわざとみなす噂は各地に広まった。人々は、妖怪的な獣を使役して日本侵略を狙うアメリカやイギリスの謀略を想像した。
 明治期には、巣鴨病院に入院中の「狐憑(こひょう)症」患者113の症例を調べた報告書がつくられた。狐つきはありふれたものだったのだ。
 内山節によると、野山で狐にだまされることがなくなるのは、昭和40年ごろだという。

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