■中公新書251103
筆者はほぼ同年代で、同じ時期に同じ学部にいたことに親しみをおぼえて入手した。
一般論からはいるから退屈だったが、怨霊がいかに世の中をうごかし、時代ととに怨霊がどう変化するのかがよくわかった。実は今も怨霊の力は十分に残っている、とも。
日本人は生と死の間に絶対的な断絶はなく、霊魂は生者の近くで子孫を見守っていると考えた。高野山や伊勢朝熊山上などに多くの墓がつくられ、山に霊魂が帰るという「山中他界観」「山上他界観」が一般的だった。海岸近くでは、霊魂は海のかなたにいくという「海上他界」という考え方も見られた。868年からはじまる補陀落渡海は、海のかなたを死者の霊の集まる世界とする常世信仰と仏教の観音信仰とが習合した結果だった。
怨霊の鎮撫は、死後の世界の体系があり、霊魂を得道させる方策を有する仏教が主導した。奈良時代はじめは雑密のもつ呪術力によって調伏していたが、善珠、最澄・空海を経て、さまよい苦しむ怨霊に説いて聞かせ成仏を願うという形式が確立した。
早良(さわら)親王は、桓武天皇の皇太弟になったが、藤原種継暗殺に関与したとして乙訓寺に幽閉された。淡路へ船で移送される途中、淀川で亡くなった。都へもどることを赦されず、淡路に葬られた。
菅原氏は土師氏を祖とし、781年に土師宿禰古人らが、居地の名である菅原郷(奈良市菅原町)にちなんで改姓を上表して許された。
897年、宇多天皇が退位して醍醐天皇が即位すると、宇多から全幅の信頼を受けていた菅原道真と新帝との関係は微妙になった。藤原時平が左大臣・左大将、道真が右大臣・右大将となると、道真を追い落とす動きが強まる。901年、道真は太宰権師に左遷された。藤原氏による他氏排斥の一環とみなされている。道真は2年後、59歳で亡くなった。
その後、道真と敵対した時平が39歳で、醍醐天皇の皇太子保明親王が21歳で早世する。清涼殿への落雷で死者がでて、衝撃をうけた醍醐天皇は病に伏せり46歳で亡くなる。
地震・疾病・飢饉、東大寺・崇福寺・法隆寺・延暦寺などの焼亡、藤原純友・平将門の乱、前九年の役……を起こしたのも天神によるものとされた。
945年には、民衆の熱狂的な宗教運動として有名な志多羅神入京事件がおこった。志多羅神と八面神といった諸神が東西の国々から入京するとの噂があった。承平・天慶の乱が鎮圧されてまだ4年であり、東西から神々が入京してくるとの噂は、平将門と藤原純友の怨霊の出現を想起させた。
神田明神の創建は将門の鎮魂がきっかけだった。神田明神は江戸っ子の氏神として信仰を集め、氏子は今でも将門調伏をになった成田山新勝寺には参詣してはいけないとされる。
平将門の首塚の場所には、明治になると大蔵省が置かれたが、御手洗池とよばれる蓮池と将門塚は残された。1923年の関東大震災で塚が破損し、発掘調査後、石室は壊され御手洗池も埋められて大蔵省の仮庁舎が建てられた。ところが大蔵官僚で病気となるものが続出し、大蔵大臣はじめ2年間で14人が相次いで死亡した。工事関係者にもけが人や死亡者が多く、とくにアキレス腱が切れる者が多かった。将門が足の病のために敗れたという故事に関係するのではないかと噂され、塚の上の庁舎はとりこわされ、1928年に将門鎮魂祭がおこなわれた。
東京大空襲で焦土と化し、戦後はGHQのモータープール建設用地として接収された。整地しようとしたところ、ブルドーザーが地表面に突出していた石にぶつかって横転し、日本人運転手と作業員がブルドーザーの下敷きになって1人が即死した。ほかにも労務者のけが人が絶えなかった。将門塚があった場所で、ブルがぶつかった石は、塚の石標だったことがわかった。町内会長が司令部に塚の由来を説明し、壊さないように陳情して塚は残された。
将門や純友の乱の際、朝廷から宇佐八幡宮に奉幣が行われ、八幡神は、乱を平定する軍神の役割が期待された。一方、アマテラスの系譜を引く「主流」にたいして、「傍流」「祟り神」としての側面もあり、主流を脅かす存在でもあった。道鏡を天皇にという宇佐八幡宮の神託もそのひとつだ。
崇徳天皇(1119~64)は鳥羽天皇と藤原公実の娘璋子との間に誕生した。(別書によると、祖父が璋子と密通して生まれた子)鳥羽上皇が退位を強要し、3歳の近衛天皇が即位。鳥羽院が政務を取り仕切った。
崇徳は次の天皇に自らの子である重仁をつけようとしたがかなわず、後白河が即位した。保元の乱で敗れ、崇徳院側の源為義、平忠正ら74人が処刑された。810年の薬子の変以来の死刑が復活した。久々に京都において戦いが展開されて多くの家も焼失したため、貴族たちは「武者の世」が到来したことを実感することになった。
崇徳院は讃岐へ配流となった。直島などを経て、坂出市の雄山・雌山の麓の湾入した「松山津」で亡くなったと考えられている。
実際の崇徳は極楽往生を願って亡くなったが、「保元物語」では、都の近くにおいてほしいと訴えたが拒まれたたため、舌先を食い切り、その血で経の奥に「日本国ノ大悪魔」となるとしるし、髪も整えず爪も切らず、生きながら天狗の姿になり祟りを引き起こしたとされている。
保元物語がまとめられた1230年代には後鳥羽院怨霊の問題があった。後鳥羽院は承久の乱に敗れて隠岐へ流されたが、本人が置文で「魔縁」となることを誓い、生前から生霊が噂された。後鳥羽院の鎮魂は、崇徳院怨霊の鎮魂が参考にされた。後鳥羽院の怨霊をもとに「保元物語」の崇徳院怨霊の話が創造されたと筆者は推測する。
後白河天皇周辺の人物が相次いで亡くなり、比叡山の大衆が神輿をふりかざして洛中へ乱入し、神人らが数多く射殺された。大極殿以下8省院が焼失する大火災がおき、死骸があちこちに転がる状況となった。この安元3年の火災は「方丈記」に記されている。
崇徳の霊を鎮めるため、「讃岐院」とよばれていたものを「崇徳院」にあらためた。非業の死を遂げた天皇に対して「徳」の字のつく諡号をおくるのは安徳・顕徳(後鳥羽)・順徳でもみられる。
崇徳院の力は江戸時代の直島にもおよぶ。
領主の高原氏が改易された際、つかえていた三宅氏も処罰されそうになった。三宅氏は崇徳院とともに京都からやってきて、院との間に生まれた重行を祖とする家柄であり、院によって直島の支配を認められたが、高原氏が「押領」したと主張することで、大庄屋となった。そのとき提出されたのが「崇徳院院宣」や直島における崇徳院の由緒を語る「故新伝」だった。
江戸末期には「尊皇」の流れで崇徳の神霊を京都へうつすことになり、現在の白峯神宮の地に「崇徳院御社」を1867年に建立した。。讃岐配流が武家政治への転換と関連づけられていたからには、神霊を呼びもどすことで武家政治を終焉させなければならなかったのだ。
後鳥羽院の怨霊は、鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇を隠岐へむかえさせた。室町時代まで後鳥羽院怨霊はおそれられ、後鳥羽院の神霊がまつられる水無瀨御影堂は、足利将軍からあつい崇敬をうけた。
後醍醐天皇は死去に際し、自らの骨はたとえ吉野の苔に埋もれても、魂は常に京都の内裏を思いつづけると誓った。そのため、通常天皇陵は南面しているのに、如意輪寺内にある後醍醐の塔尾陵は北面している。
後醍醐天皇の怨霊鎮魂のため、尊氏・直義により、夢窓疎石が開山となって天龍寺が創建され、後醍醐の霊魂をまつる多宝院が建立された。
怪異現象の背後に神意の存在をかんじ、国家が神をなだめるシステムは戦国時代にはなくなっていく。対照的に、秀吉、家康といった権力者を神としてまつるようになる。戦乱では、神仏の力よりも兵力の強弱によって勝敗が決するという「合理的」な思考が優勢になり、神仏にたいする絶対的信頼心は希薄になっていたからだ。
芸能や芸術も、戦国時代以降は宗教と切りはなされて独自の発達を遂げる。たとえば絵画も、神仏やそれにともなう行事を描いていたものが、人間の姿や風景を描くようになる。西欧におけるルネサンスと似ている。
「怨親平等」の思想は、怨霊という考え方が薄くなる一方で、戦乱などで亡くなった人々の慰霊のあり方として日本人の思想として優位を占めるようになった。
高野山奥の高麗陣敵味方供養碑は、島津義弘が敵味方関わりなく供養するために建立した。この碑は、明治から大正にかけて博愛主義の表象と位置づけられ、日本の赤十字条約加入過程で重要な役割をになったとされている。
近代になると、日清・日露で、敵に敬意を表することは武士道精神でり、天皇の仁慈のもと怨親平等を発揮すべきとされた。
日中戦争でも、怨親平等思想に基づく供養がおこなわれた。慈悲の観音菩薩をもって、「興亜」の象徴とする「観音世界運動」が推進された。怨親平等が大東亜という政治的思惑にとりこまれたのだった。
怨霊は規模を小さくしながらも戦後も生きている。
津市中河原海岸の「海の守り」という女神像は、1955年7月28日、水泳教室を開いていた橋北中学校の女子生徒36人が溺死する事故後にたてられた。その10年前の1945年7月28日の津市大空襲で、海岸へのがれた人々がB29の焼夷弾攻撃により亡くなり、その成仏していない霊が、海中に生徒を引っ張り込んだと噂された。生徒のなかには海の底からたくさんの人が引っぱろうとしたという証言もあった。現在でも海岸は遊泳禁止となっている。
私が取材してきたなかにも、グアテマラの日本人観光客殺害事件や平家の落人のたたりによる土木作業員の事故死など、いくつも「怨霊」とであった。熊野古道の妖怪「おめき」の話もある。不安の時代には怨霊が猛威をふるう。関東大震災時の朝鮮人虐殺なども、「毒を井戸に入れた」などのデマが信じられた結果だった。現在の外国人排斥も生活の不安を背景に「悪魔」がつくりだされたようなものだ。かつての怨霊にちかいのかもしれない。