京都からヒッチハイクで島根県美保関町(2005年から松江市)の七類港へ。そこからフェリーで2時間半かけて隠岐・島前の西ノ島にある浦郷港におりた。漁船をチャーターして、焼火山(452メートル)のすぐ下の入り江にむかった。
ねぐらは「木こりの小屋」
浜にはもくろみどおり小川が3本ながれている。それぞれをS川、E川、X川と名づけた。これだけ立派な川があればぞんぶんに水浴びもできる。
北と南に岬がはりだしているから、入り江の砂利浜はおだやかな波がうちよせる。北側の岬の上には文覚窟という洞窟がある。
入り江の奥の森のなかに朽ちかけた小屋をみつけた。ブルーシートでテントをつくる予定だったが、この小屋があれば雨はふせげる。こんな場所に木こりがいるとはおもえないが、なぜかわれわれは「木こりの小屋」とよんだ。
ヤブ蚊が多いから、生木をもやして蚊除けにした。充満した煙で目をあけていられない。
ある晩、小屋の寝場所の場所とりのじゃんけんに負けたツルは、「煙もないし、すずしいし外のほうがええわ」と、ひとりで外で寝た。
翌朝、腫れぼったいジャガイモのような顔をした見知らぬ男が「おはよう」とぼくらに声をかけてきた。だれかとおもったら、顔中蚊にさされたツルだった。
ベラは捨てニイナとフナムシを食う
昼間は縄文人のように魚や貝をとる。釣りは2回生のクマや、漁村育ちのヤマネ、ザイールのセージがうまい。
一番よく釣れたのはベラという魚だ。
「ベラなんかまずくてくえんぞ! すてろ、すてろ!」
ヤマネの助言で、みんな放流した。「餌盗り」や「外道」あつかいだ。だがあとでしらべると、瀬戸内海では高級料亭でもつかわれ、刺身でも煮つけでも唐揚げでもよろこばれるという。
だれでも簡単に採取できるのはニイナという巻き貝だった。
ニナ貝、シッタカ、ビナ……など地域によって無数の呼び名があるが、学名は馬蹄螺(バテイラ)。馬の蹄の形ににているためらしい。
1年後の北海道サバイバルでうんざりするほどたべることになるので、隠岐でたべたことをわすれていたが、「ゆがいて身をほじくりだして、炊き込みご飯にしたらうまかった」とコヤマに指摘されて、がっついてたべたのをおもいだした。砂抜きをしていないからジャリジャリしたはずだが、気にしなかったようだ。
飯盒でたいた米を油とコショウで味つけして「(餃子の)王将のチャーハンの味や!」と、よろこんでいた。王将のチャーハンだって、卵や人参や肉片がはいっている。油をからめただけの飯といっしょにするなんて失礼な話だ。
サバイバルでは食料を確保できる人間の発言力が当然つよまり、そこにはヒエラルキーができる。一方、はたらくのがきらいなコージは、すわりやすい大きな岩を「コージ岩」と名づけて木陰におき、日がな一日ボケーッとすわっている。ここまで徹底するとこれはまた存在感がたかまり、お地蔵さんのようにありがたがられた。
ぼくは釣りは不得手だから、貝やら山菜やら、たべられるものがないかとさがしていた。
中学時代、田んぼでとったカエルを砂糖醤油で焼いてたべたことがあった。
大きなナメクジをみつけたとき「ナメクジだけはぜったいくえないよな」と友人がいうから、「調味料があればくえるぞ」と反論した。「くったら千円やるわ!」という。
塩をふって錠剤の大きさまでちぢんだナメクジをゴクンとのみこんで千円をせしめた。(100円だったかも)
自分の機智を自慢するつもりでその経験をはなしたら、「フジイはカエルやナメクジやウジ虫もくう」ということになり、「フジャー」というあだ名が、ウジ虫を食ったというデマとともに「ウジャー」になり、ナメクジを口にしたために「ナメクジャー」とよばれるようになった。
たしかに好奇心は旺盛だったから、サバイバルでも新しい食材がないかさがした。
小石の浜には、ゴキブリに似たフナムシがガサゴソと音をたてて大量にはいまわっている。これをたべられたら食料不足にならないな。
1匹つかまえて分解してみた。胴体は……ゴキブリの羽根か甲虫の殻のようでたべられそうにない。唯一、半透明の腹だけはゼラチン質にみえた。ためしに口にいれてみると、やわらかくて海水でしょっぱいからたべられそうだ。でも寄生虫がいそうな気がしてもう1匹たべようとはおもえなかった。
「で、どんな味なんや? もう1匹くってみいや。写真にとりたいし」
2回生のコツボがしつこくせまる。
「まあまあの味や。自分でためしたらええやん」
そういってフナムシを手わたそうとしたが、彼はうけとらなかった。
巨大なうんこ、犯人は……
「衣食住」は大切だけど、大人数のキャンプではもうひとつ大事なことがある。排泄だ。
十数人がそこかしこにうんこをしたら大変なことになる。そこで、森の一部を便所エリアに指定し、排出したら土をかけておくというルールをもうけた。
ところが、なかにはエリアを無視して、しかも埋めないやつがいるから、ときおり悲鳴があがった。
「なんやこのでかいうんこ! ふんでもうたやんか!」
ぼくも腰をおろそうとしたら岩と岩の間に巨大なうんこがあって、間一髪で回避したことがあった。
「だれや! こんなとこに巨大なクソしたのは!」
「あ、それたぶん俺や。がまんできんかってん」
野放図に放置された巨大なうんこはたいていコツボのものだった。
彼の名はコツボテツローだが、サバイバル以来、ノグソケツローとよばれるようになった。
新聞記者になってから「快便」の定義について取材したことがある。
第2次大戦中、米軍が日本軍の露営地跡をしらべて、のこった便の量から兵力を推測したが、捕虜からきくと、実際の兵力は推測した数よりはるかにすくなかった。当時の日本人は大量の米をたべていたから、米国人がおどろく量の大便をしていたのだ。戦後直後の日本人の繊維摂取量は1日27グラムだったが、現在は14グラム程度。日本人のうんこは戦後70年間で、立派なバナナ型から、べちゃべちゃで形がない欧米人型に変化してきたという。
ノグソケツローの巨大なうんこは、米や麦を1日4合たべて食物繊維を大量に摂取してきた結果だったのだ。
おぼれる隊長、あざ笑う丁稚
2回生は素朴な田舎者が多かった。なかでもヤマネは、泥酔した際に、「デンセンマンの電線音頭」(1976~78年の「みごろ!たべごろ!」でヒット)のような「ヤマネ踊り」をおどってゲロをはくという特技以外は存在感がなく、小柄でおとなしくてなさけないから「丁稚」とよばれていた。
彼は島根県の漁村育ちだ。サバイバルがはじまると、幼いころつちかった素潜りの技術で一気にスターダムをのしあがる。
大学の生協食堂で(無断で)かりたナイフを手に海中に姿を消すと、1分後には左手に大きなアワビを手にして浮上した。
彼におしえられてぼくらがもぐってもアワビはみつからない。
「おまえらどこに目をつけてるんや。保護色で岩にばけているけど、貝殻の穴から小さな触手がチラチラみえてるやろ! この程度がわからんのか、ほんま、なさけないやつらやなぁ」
春からみんなに「なさけない」といわれつづけた鬱憤をはらすかのように、えらそうに講釈をたれる。ぼくらは、彼のとったアワビをくいたいから反論できない。
とれたてのアワビ、とくにその肝が抜群においしいのだ。(注:アワビやサザエの漁獲は違法です)
「なさけない丁稚」はいつしか「師匠」とよばれるようになった。
おとなしい2回生にたいして、ぼくら1回生は個性派ぞろいだった。最初こそ「ツルさん」「ヤマネさん」と先輩をたてて敬称をつけていたが、いつしか「さん」は消え、「ヤマネ!」「コージ!」「ツルちゃん!」とよぶようになった。
1回生のなかでもセージは、「ザイールの石油王の隠し子」とハッタリをかまして以来カリスマ性を発揮し、いつしか「隊長」と自称するようになっていた。
しかし、おごれる者は久しからず。
ある日、文覚窟ちかくの磯で、釣りや貝採りをしていると、沖合をフェリーが通過して大きな波が断続的におしよせた。
ヤスを手におよいでいたセージは、波にのまれて水をのみ、岩にすがりついては波にひきもどされる。何度も上陸しようとするが、手足をゴキブリのようにバタバタうごかしても岩にあがれない。
岩の上で釣りをしていたヤマネは、そんなセージの姿をみて、全身をよじらせながら爆笑しつづけた。
命からがら陸にあがったセージは本気でおこった。
「人が死にそうになってるのに,なんや!」
それから3日間、ヤマネと口をきこうとしなかった。
ふつうの社会では、死にかけたセージに同情があつまり、せせら笑っていたヤマネは非難されるのだが、ボヘミアンでは逆だ。
「セージって、いかつい風貌のわりに臆病で、けつの穴の小さくて、なさけないやつやなぁ」
「船の波がきたら、沖でおさまるのをまったらええのに、ほんま海の常識を知らんやっちゃなあ」となった。
以来、「隊長」の権威は地におちた。「隊長」は尊称ではなくなり、
「おい隊長、ちょっと酒買ってこいや!」「隊長やろ。薪をひろってこい」というときの呼び名になった。
一方、ヤマネがかがやいたのはサバイバルの1週間だけなのだけど、30年後、50歳をこえても「伝説の海人(うみんちゅ)」を自称し、態度はでかいままだ。(つづく)